1つの時間軸、整合性とその美しさ(『ロキ』を見終えて思う事)

1つの時間軸、整合性とその美しさ(『ロキ』を見終えて思う事)

※マーベル、MCU、マルチバース等について書きますが、その説明は省きます。分からない方は「調べる」「この先読まない」など自由に選択してください。(そこで分岐が生まれます)
※MCU映画のネタバレ的な物にほんの少し触れてしまう可能性があります。

『ロキ』全6話を見終えて、もちろん面白かったし、今後の展開も楽しみで仕方無いのですが、その反面、実は、1つだけ残念に感じている事があります。

それは、この先(のMCUで)、マルチバースがいよいよ大々的に取り込まれて行く事になるのだなぁ・・・という点に関してなのだけど、いや、それが残念な訳ではなくて、これまでのMCUのタイムライン(神聖時間軸?)にマルチバースが取り込まれる事によって「何でもあり」になってしまう事が、ほんの少しだけ残念なのです。

子供の頃からSF読んでいるし、中学生の時に「脱走と追跡のサンバ」に熱狂していた人間なので、「マルチバース」に関しては、なんの抵抗感も拒絶反応ないのだけど、これまでのMCUのタイムラインがあまりにも見事で美し過ぎた。

1本の時間軸の中で、ニューヨークでソ連でソコビアでワカンダでサンクタムでアスガルドでその他、地球や宇宙のどこかで・・・・・・それぞれに歴史があり、その時間軸の中で時に誰かと誰かが交錯し1つの事に取り組む、時に大勢の者が交錯し戦いに挑む、そして、またそれぞれに、それぞれの場所で時間が流れ続け、それぞれの物語があり、またどこかで交錯する日があるかも知れない。その1つの時間の流れと、その整合性がたまらなく好きだったのです。

が、まあ、既に『アベンジャーズ/エンドゲーム』のラスト近くに登場する年老いたキャップと、エンドゲームで闘っていた若いキャップには、違う時間が流れているわけですが。

これまで、何度も数々のMCU映画を見返しては、何年にどこで何が起きて、それが後のあれに繋がっていて、なんて事をメモしたり、年表みたいな物を書いたりしてきたのですが、その美しく整合性の取れた年表が今後、わけわからなくなっていくのかな・・・・・・という漠然とした不安。

『ロキ』の変異体だけでも、相当わけわからなくなりかけているし。

もしかしたら既に存在するMCU以外のマーベル映画に関しても、マルチバースに既に存在するという考え方になるのかな?とも考えています。
その考え方は、マーベル・コミックの中では既にあるようだけど、これまでのMCU映画の時間軸は1本だったからこそ、縦に(とんでもなく)長く、横に(とんでもなく)広い、壮大な歴史を見ているような面白さがあり、それが大好きだったのです、私。

とはいえ、これまでのケヴィン・ファイギ&マーベル・スタジオの仕事を見ていると、マルチバースになったからと言って、妙な破綻は生まれないという信頼感はあります。
来年公開が予定される『ドクター・ストレンジ・イン・ザ・マルチバース・オブ・マッドネス』なんて、もう、今から楽しみで楽しみで仕方ありません。
他も全て楽しみで仕方ないのです。
あれ?残念なんて思いは、ほんの数行を書く間に消えて無くなりました。

結果、縦に(とんでもなく)長く、横に(とんでもなく)広い、壮大な歴史がいくつもあるって事でいいのでしょうか?
楽しみが大き過ぎてどうしていいのか分かりません(笑)

Dorutan


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