相原誠さんの事
8月後半から、某SNSの私のTLには、今年の福生カニ坂ロックフェスの様子がたくさん流れてきました。
と、同時に「過去の思い出」として、流れてきたのがこの写真。
これは、2015年のカニ坂での写真。
私と一緒に写っているのは、元キャロル~元ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのドラマー相原誠さん。
この2015年の投稿には、こう書かれている。
ジャックさんに声をかけていただき、2006年のカニ坂に出たのが、オレの人生の分岐点のひとつ。
そこで相原誠さんに声をかけていただき、スモーキン・ブギでLIVEをするようになり、あれこれあって、今日にいたっている。
ジャックさんとも、誠さんとも、ふだんそんなに交流があるわけではないんだけど、一緒にいると何だか楽しく落ち着いた時間を過ごす事が出来る。
波長みたいなものがあうんだろうな、きっと。
誠さんは、2020年4月に亡くなられてしまったのですが、その時の私のSNSには、こう書かれています。
私がこうして、今、本気で音楽活動に取り組んでいるのは、誠さんがきっかけをくれたから。
そんなに深い親交があったわけではないけど、誠さんと過ごす時間が好きでした。
誠さんが新宿で骨董店をやっていた頃、何度か訪ね、特に何を話すでもなく、ふたりで過ごすぼんやりとした昼下がりの時間が好きでした。
Mick Ronson Memorial Bandではじめて出演した2006年のカニ坂で、誠さんに声をかけてもらった事で、私は、それまで以上に本気で音楽に取り組むようになりました。
その日、私たちの演奏が終わってから、誠さんがわざわざ私たちのテントまで私の事を探しに来てくれた。
残念ながら、私は、駐車場係をしていて、その場にいなかったのだけど、車で会場を後にする誠さんが私を見つけてくれて、少しだけ話をする事が出来た。
そこで、お互い連絡先を交換、その後、誠さんがオーナーを務めていた新宿のライブハウス「スモーキン・ブギ」に出演するようになる。
当時の私は、しっかりとしたバンド活動をしていたわけではないので、その旨を告げた所、誠さんは「ソロでもいいじゃない?」と言ってくれた。
それをきっかけに、かなりの頻度でスモーキンブギに出演するようになるのだが、2回目からは「1人でも不思議なバレッツ」という覚悟を持って、不思議なバレッツ名義でLIVEをやるようになった。
すると「1人でも」と覚悟した途端に、なぜか色々なメンバーが集うようになり、不定形のユニット、不思議なバレッツとしての活動が始まる。
特に、80年代の活動時にあれほど困っていたドラム不在問題が、一気に解消された不思議。
ジューシィ・フルーツのトシさん、元アブノーマル・ストリッパーのテラさん、元カーネーションのトクさんと言った、錚々たるドラマーが代わる代わる不思議なバレッツのドラムを務めてくれたのだ。
2007年12月、スモーキン・ブギでの不思議なバレッツ、ドラムはジューシィ・フルーツの高木利夫さん
その後、あれこれあって、色々と活動を続け今日に至るわけだけど、今日の本題はそこじゃないので、端折ります。
私が道を踏み外しそうになっていた時(一般的にはそっちが正しい道)、しっかりと進むべき道を指し示してくれた相原誠さん。
誠さんの骨董屋さんでのエピソードが上に書いてあるけど、当時、私は、新宿にほど近い初台にWEB制作関連の個人事務所を構えていて、制作自体は面白かったのだけど、お金を儲ける事には興味がなく、金の亡者みたいな人たちとのやり取りの中で随分と心が消耗していた時期。
そんな時に、ぶらりと誠さんの所に向かい、2人でぼんやりとした時間を過ごすのが本当に好きだった。
まあ、回数にしたら2~3回程度なんだけど。
その後、何年も会っていなかったんだけど、2015年のカニ坂で久しぶりに話をする事が出来た。上の写真を見ればなんとなく、私と誠さんの関係性みたいなものが伝わるんじゃないかな?
一つ大きな後悔となっているのが、どるしゃあで、ご一緒出来なかった事。
誠さんが、スモーキンブギの後、東大和でやっていたCafebar COOというライヴが出来るお店があって、そこに出たいと思っていたのに、デモ音源を持って挨拶に行くつもりでいたのに、一日伸ばしにしているうちに、誠さんは逝ってしまいました。
どるしゃあの音楽を誠さんに聴いて欲しかった。
自分の出不精が恨めしい。