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勝手にあれこれ考えた(映画『いきもののきろく』を観て2)

さて、昨日のブログ「寄り添う力(映画『いきもののきろく』を観て)」では、おおよそ映画の感想とはかけ離れた内容、菊池琢己のギターの事だけを書いてしまった私ですが、映画を観ながら、そして観終えて、あれこれ考えた事があるので、うまくまとめる自信はまったくありませんが、つらつらと書き綴ってみます。

原案:永瀬正敏、脚本・監督:井上淳一、主題歌:PANTA
『いきもののきろく』

映画を観る前には、あまり予備知識を仕入れないタイプの私。
監督、主演、音楽、など基本情報は知っていましたが、どういう映画なのかは全く知らず、短編映画である事や、モノクローム映像である事すら知らずに観始めました。

予告編も観なかったので、主題歌は映画の中ではじめて聴いた事になります。
それだけに衝撃も大きかった。


『生き物の記録』と『いきもののきろく』

いや、その前に、気にかかっていた事。
それは、黒澤明の映画『生き物の記録』と同じタイトルである事。
こちら『いきもののきろく』の綴りは平仮名だけど。

この意味は?
もちろん何かしらの関係はあるのだろうけれど。
『生き物の記録』は、はるか昔にレンタルビデオでVHS版を観た記憶。

『生き物の記録』をぼんやりと思い出しつつ『いきもののきろく』を観る。
観ているうちに、3.11東日本大震災で傷を負った者の再生の物語?という輪郭が見えてくる。
原発事故後の生き方を巡り、家族との間に考え方の溝が生まれる。

この辺りに『生き物の記録』との共通点を見つけようと思えば、見つけられるのだけれど、それは考え過ぎだろうか?
映画を観ながら走り書きした手元のメモには

「生き物の記録」と「いきもののきろく」
核による心の分断、生き方の分断

と書いてある。
ただ、そういう部分にあえて着目するよりも、もっと素直に、大震災後を生きた人間という「いきもののきろく」と捉えた方が良いのかも知れない。


映画を観終えて、答え合わせ的にチラシ画像を見ると「喪失と再生の物語」と大きく書いてあり、そこは見方として間違ってなかった、というか、それは、間違えようがないほど、はっきりと伝わる話。

しっかりと受け止めました。

膨らむ勝手なイメージ

あとは、勝手なイメージの話になるのだけど、この映画、セリフがない。
それだけに、イメージが膨らむ。
観る者の想像力によって、印象も変わってくるのではないだろうか?

私の中に生まれたいくつかのイメージの中で、ひとつドキっとした事があるので、それを書いてみます。

廃材、廃品を集めて作った筏を川に浮かべ、火をつけてから川に流すシーン。
(上のチラシの中にもそのシーンの画像があります)

火のついた筏がゆっくりと川を流れてゆくシーンを観ながら、私は、映画『田園に死す』の中で、雛人形の段飾りが川を流れてゆくシーンを思い浮かべていました。

片や色鮮やかな雛飾り、片やモノクロ映像の廃品で作った筏
周囲の風景も何もかも全く違う、ただ「ゆっくりと川を流れてゆく」ということ以外には、共通点は何もないのだけれど、私の脳裏にはこの映像が浮かび、と同時に「彼岸と此岸」という言葉が浮かびました。

その直後、スクリーン(TV画面だけど)に表示された言葉に軽く驚きドキっとしたのです。
私だけの勝手なイメージと、映画の中の言葉(文字)がシンクロした瞬間。
いや、勝手にシンクロしたと思っているだけかも知れないけど、言葉の意味としてね。

このイメージに関して、もうひとつ面白いと思ったのは、映画『田園に死す』は、寺山修司監督作品。

『いきもののきろく』主題歌の「時代はサーカスの象にのって」の歌詞もまた寺山修司(高取英 補作)という所にも軽く驚く。
これは偶然のシンクロなのか、それとも何かしらの必然?



そんな具合で、勝手なイメージや思索によって、この映画から、大きな楽しみを得たわけですが、観終えた後も偶然のシンクロを感じて思索を巡らす事になりました。

この映画を観たのは、昨日、2025年1月17日。
その日は、阪神淡路大震災からちょうど30年。

東日本大震災からの再生を描いた映画『いきもののきろく』を観た夜に、ニュース番組などで、阪神淡路大震災からの再生の(リアルな)物語を観る事になったのです。
そこでまた映画を思い、現実を思い、再生を思う私。


「再生」は、今年の私の一番大きなテーマでもあるのです。

寄り添う力(映画『いきもののきろく』を観て)

11年前に作られた短編映画『いきもののきろく』が、3月7日からのテアトル新宿をはじめ全国で順次公開されるらしい。

原案:永瀬正敏、脚本・監督:井上淳一、主題歌:PANTA
『いきもののきろく』

この映画の音楽をPANTAが担当している事、この映画のために「時代はサーカスの象にのって」を、菊池琢己と2人で再録した事は、11年前に知っていた。

知っていたけれど、これまで映画を観る機会も、音楽を聴く機会もなかった。
それが全国公開前のこのタイミングで映画を観る機会をいただいた。
と言っても映画館ではなく、井上淳一監督の計らいで、インターネット経由で。

しかし、これはPCではなく、ある程度しっかりとしたサイズと音で観たいと思い、PCをそれなりに大きな画面サイズのTVとそれなりのオーディオ装置に繋ぎ、しっかりと鑑賞。これが大正解でした。

映画にはイメージを喚起され、思う事多々あったのだけれど、それはちょっと置いておいて、今日、今、書きたい事を書きます。

音楽の事を知っていたおかげで、それが流れる瞬間が来る事をどうしても期待している自分がいる。
期待というのとは、違うかも知れないけれど、この映画が終わるまでに、どこかでPANTAが歌う「時代はサーカスの象にのって」が流れる事を私は知っている。

その時が来た。

イントロのアコースティックギターの一音を聴いた瞬間に涙がこぼれた。

その音色と響きに一瞬で心を持っていかれてしまったのだ。
その後、エンドロールまで菊池琢己の弾くアコースティックギターに感動しつつも、その時は、割りと冷静に観終える事が出来た。

観終えてから、井上監督とメッセージのやりとりなどした後、少し時間をおいて、もう一度、音楽の流れる少し前から観直してみた所、やはりギターの一音で涙がこぼれ、今度は、曲が進むにつれて涙腺が崩壊しました。

申し訳ないのだけど、映画の意味であるとか、寺山修司の歌詞(高取英 補作)の意味であるとか、PANTAの歌の力であるとか、PANTAが既にこの世にいない事であるとか、そういうの一切抜きに、ただただ菊池琢己のアコースティックギターに感動して、演奏が終わるまで、心を揺さぶられ続け、ちょっと嗚咽に近い感じで泣き続けてしまった。
気持ち悪いですね。ごめんなさい。

もちろんそこには映像の力があり、PANTAの歌があり、寺山の言葉があり、それらが一体となって心に迫った事は間違いないのだけど、そのすべてに寄り添うような菊池琢己のアコースティックギターが本当に素晴らしすぎて、涙が止まらなかったのです。

これ、映像を観ながら演奏し、歌と同時に録音したという事を聞いていたので、さらにそのすごさに震えます。(簡単に言えば一発録り)
歌に寄り添い、映像に寄り添い、言葉に寄り添い、その音色にメロディーに思いを込めて弾いている。
その思いの深さまでもが伝わってくるような深い音色と響き。紡ぎ出されるフレーズの美しさ。
しかも小さなミスひとつなく完璧。
それでいて我を出し表に立つような事はなく、何度も書くけど、歌に、映像に、言葉に寄り添うように、しっかりと傍らに立ち、紡ぎ出される。

PANTAの歌はもちろんすごいのだけど、この映画を観る人には、ぜひとも菊池琢己のギターを、思いを聴いて欲しい。そしてその寄り添う力を感じて欲しい。

「どるたんがブログに書いていたから菊池琢己のギターを聴くためにこの映画を観た」という人がひとりでも出てきたら嬉しいのだけど、そんな人いるかしら?

(文中敬称略)