Category Archive : スポーツ観戦

1994年 日本グランプリの阿部典史

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1994

後にも先にもレースを観ながら笑い転げたのは、この時だけ!

そして「人間ってあまりにも凄いものを見ると笑ってしまうのだな」と思った。
「人間」じゃなくて「私」固有の性質かも知れませんが。

観たと言っても自宅でのテレビ観戦です。
いや、本当に興奮しました。
生涯で一番の興奮度かも知れません。

それは世界最高峰のロードレースWORLD GRAND PRIX(WGP) 500ccクラスにスポット参戦した若干19歳の日本人ライダーが巻き起こした衝撃!

前年度、全日本ロードレース500ccクラスのチャンピオンとしてワイルドカード枠で参戦した阿部典史(ノリック)。

当時の私は、ロードレース関連の雑誌を数誌定期購読していたので、ノリックの事はかなり早くから注目していました。
そして、いつかWGPで走る姿を夢見ていました。

それが想像以上に早く実現!
それだけではなく、とんでもない物を目撃してしまったのがこの日の日本GP。

予選7位のポジションから順位を上げていくノリック。
ついには、マイケル・ドゥーハン、ケヴィン・シュワンツとデッドヒートを繰り広げながら10週目でトップを走行していたルカ・カダローラを抜き、トップに!

マイケル・ドゥーハン、ケヴィン・シュワンツも、ルカ・カダローラをパスし、3台での抜きつ抜かれつのデッドヒートはさらに激しさを増す。
この辺りから、「うわっ!」「うひゃひゃひゃ!」「わ~っ!」と笑ったり叫んだり。

一時は、シュワンツに若干差をつけられ、ドゥーハンとの2位争いを展開。
そして、どうにか2位をキープするノリック、ついにはトップを走るシュワンツに追いついた!
と思ったらそのまま抜き去りトップを走行。残り7周!

その時には、「うわ~~~~~~~!ひゃははははははははははは!」叫びの後半が徐々に笑いに変わって行くという凄まじい状況に。

さらに追いついてきたドゥーハンを含め、またしても3台でのデッドヒート!

そして2位を走行中、ラスト3周!
となったところで、大転倒!!

テレビの前で「うわ~~~~~~~っ!!!」と叫び、ソファから転がり落ちる私。

その後は魂が抜けたような心持ちで呆然とレースを見ていたような気がします。(記憶がない)

それにしても、防音の部屋で良かった。
アパートだったら絶対通報されているレベル。

これGPの事知らない人には、全く伝わらない話かと思いますが・・・無理矢理例えて言うならば。

甲子園で優勝投手となった高卒ルーキーがいきなりメジャーリーグに参戦、初登板でバッタバッタと三振をとりまくる。
完全試合まで9回裏の相手の攻撃を残すのみ!!試合は0-0の大接戦!
で9回裏に、さよならホームランを打たれ敗戦投手。

って感じ?

まあ、初登板(で対策されていない)という所もミソだったりするのですが。

この後、ウェイン・レイニーからの熱烈オファーにより、ノリックはシーズン途中でヤマハに移籍。
ヤマハからWGPに参戦します。

ノリックはそれまでホンダのライダーだったので、超異例の事態。

その後のシーズン、この日本GPほどの大きなインパクトを残せなかったノリックですが、もし乗り慣れたホンダで、この日と同じNSRでGPに参戦していたらどうなっていたのか・・・

そんなパラレルワールドがもし存在するのであれば、この目で見てみたい!と今でも思う私です。

それにしても、本当に凄かったのよノリック。
その後のWORLD GRAND PRIXでの活躍もTV放送や専門誌などで追い続けてきました。

そして、このレース(1994年 日本グランプリ)は、今、DVDで観ても興奮します。
死ぬまでに、まだ何回か、DVDを観て興奮する予定。興奮しながら死んでもいい、マジで(笑)

気になる方、観てみたい方はDVDを買いましょう!


1983年 新日本プロレス 前田日明凱旋帰国

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1983

1983年 新日本プロレス 前田日明凱旋帰国

ジャンルをスポーツ観戦にしたけど、プロレス観戦の話です。
プロレスはスポーツなのか?と固い事は言わずに受け入れて下さい。
Sports Graphic Number誌上にも、プロレスは取り上げられていますので。

時は、1983年4月21日

私は、22歳、コンピュータ技術者としてそれなりの収入があった頃。

その頃、タイガーマスクの登場、藤波対長州の名勝負(後に名勝負数え歌と呼ばれる)で、人気に火がついた新日本プロレス。

初めて自分のお金でチケットを買って見に行ったプロレス興行がこの日です。

しかし、私の一番の目当ては、タイガーマスク対小林邦明でも、藤波対長州でも、猪木対マサ斉藤でもなく、この日、凱旋帰国試合となる前田日明。

前田の事は、なぜか新人時代から気になっていました。
試合は一度も見た事ないのに。

ある日、プロレス雑誌で、新日本プロレス寮が紹介された時に、痩せ型で(たしか)坊主頭の前田が、どういうわけか「誰がカバやねんロックンロールショー」のLPレコードを片手にファイティングポーズをとっている写真が掲載されました。(記憶に間違いがあったらごめんなさい)

その時から、気になる存在だったのです。

その後、前座でガチガチの凄い試合をするやつがいる(それが前田と平田淳二)という風の噂も聞き、さらに少しして、その若手、前田日明がヨーロッパ(イギリス)に武者修行に出た事を知ります。

イギリスでの活躍の様子なども、たまに雑誌に載る様になってきたある日、私は週刊ファイトに掲載された写真を目にします。

その写真を見た時に、私の前田への興味はマックス状態になり、帰国を心待ちにするようになりました。

それは、坂口征二がイギリスの前田の元に飛び、(当時ウェイン・ブリッジの家に下宿していた)前田と2人並んで撮った写真。

前田は上半身裸でファイティングポーズ。

痩せ型だった前田の上半身はナチュラルな筋肉で形良く膨れ上がり、(日本人の中では大型の)坂口征二と並んでも全く引けをとらない、むしろ上回っているとも感じられる姿になっていたのです。
この姿を見た時に、前田日明への期待値はMAXに。

そしてほどなく前田はヨーロッパヘビー級チャンピオンとして帰国、凱旋試合がこの日。
私は、前田の試合が発表されるとスグに(前田目当てで)チケットを購入。

肝心の試合ですが

前田のセコンドにはカール・ゴッチ!

試合は、3分程度のちょっと消化不良の試合で、前田の一方的勝利。

試合後、対戦相手のポール・オーンドーフがレフェリーに執拗に抗議していた事からも、この試合の不穏な空気は感じました。

後から色々な情報を知りましたが、まあ、それは良いとして(興味のある方は、ネット検索すれば色々出てくるはず)
消化不良とは書きましたが、逆に、個人的には、さらに前田への興味が高まった試合でした。

この日、きっと他の試合も良い試合ばかりだったと思うのですが、今、思い出すのは前田の事だけです。

ところで、このチケット画像を見ると前田の名前、前田日明の日の部分が消されているんですよね。

この後、新日プロでは前田明と表記するようになります。

日明と書いてあきらでは読みづらいから、テレビなどでの露出も多くなる事もあり、読みやすい明(あきら)一文字に変えられたのでしょうが、なんとなく、前田のアイデンティティを否定しているように感じて、少し嫌な気持ちになりました。


1984年 鈴鹿8時間耐久オートバイレース

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1984

1984年 鈴鹿8時間耐久オートバイレース

後にも先にも鈴鹿まで出かけて8耐を観たのは、この年だけ。
なんせお金がかかりますから・・・
友人の車で出かけました。

それ以外の何年かは、青山にあるホンダのショールームや多摩テックで(パブリックビューイング的な物を)観ていました。

では、なぜ、この年だけは、鈴鹿まで行こうと思ったのか!?

それは、コーク・バリントンが出場したから。

では、コーク・バリントンとは?

ちょっと長いけどWikiから抜粋引用します。

南アフリカ(生れはローデシア)の元オートバイレーサー。ロードレース世界選手権で通算4度の世界チャンピオンに輝いたライダーである。

数年間のスポット参戦ながらヤマハの2気筒マシンで勝利を挙げるなどの活躍を見せていたバリントンに目を付けたカワサキは、彼をファクトリーチームに迎え入れた。ファクトリーライダーとしてフル参戦を開始したバリントンは、カワサキの期待に応えて1978年と1979年、激戦区である250ccと350ccの両クラスで2年連続ダブルタイトルを獲得した。

1980年、ケン・鈴木率いるカワサキとバリントンはモノコックフレームという当時としては革新的な構成を持つニューマシン、KR500で最高峰クラスへの挑戦を開始する。しかしバリントンの力をもってしても、ニューマシンを開発しながらレースを戦うには500ccクラスの壁は厚く、250ccクラスや350ccクラスでの成功を再現することはできなかった。

結局、3年間に渡る500ccクラス挑戦で勝利を挙げることはできず、カワサキは1982年を最後にKR500の開発を取り止めると同時に世界選手権からの撤退を決定。カワサキがバリントンに撤退ぎりぎりまで伝えなかったためそのときには他チームの翌年陣容が決定済みでバリントンは他チームのシートを得られずグランプリから引退した。

2年連続、250と350の2クラスで、世界チャンピオンですよ!カワサキで。

そしてKR500!
当時としては革新的な構成を持つニューマシンKR500!
結果は残せなかったけどKR500
プラモデル作りました!

何か特別なチャレンジをする物が好きなんです。(例:楕円ピストンしかも4ストのNR500とか)
バイクに限らず他の分野でも。

しかし、コーク・バリントンの事は、雑誌の中でしか知りませんでした。

でも、その経歴と、インタビューなどで知る人柄に勝手に惚れ込んでいました。
当時の私は(バリントンと同じ)Nolanのヘルメットにカワサキのバイク。

そんな、私にとって特別な男が、8耐出場!しかもカワサキのバイクで!!

プロレスで言えば「まだ見ぬ強豪」
この目で見ないわけにはいきません。

ただ、カワサキのバイクと言っても、カワサキは8耐にはワークス(メーカーが直接運営するチーム)参戦していません。
月木(ツキギ)レーシングという(カワサキ車用のマフラーなどを作っている)コンストラクターチームからの参戦。

この時のコーク・バリントンの雑誌インタビューを読むと、カワサキに対する恨み言(GP撤退~引退の顛末)など一切なく、むしろカワサキのバイクでレースが出来る事を本当に楽しみにしている様子で、それだけでも涙が出ました。

さてレース。

前日までに行われた予選の結果は、コーク・バリントンをもってしても、ワークス参戦しているHONDAやSUZUKIには力及ばず、それでも12位と大健闘。

決勝レース、主にコーク・バリントンを(目で)追い続ける私。

お!・・・・・・・・・・・・・・・・お!・・・・・・・・・・・・・・・

と何度か私の前を一瞬で通り過ぎるコーク・バリントンの姿を確認し、小さく心の中で歓声をあげる。

しかし、ほどなくその姿は見えなくなった。

場内アナウンスでリタイアした事を知る。
今、リザルトを確認したら15周でのリタイア。

そこからの長い7時間ほどの事はほとんどおぼえていません(笑)

そんな1984年の夏でした。