Category Archive : BOOKS

『世界怪奇スリラー全集』他

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1968


これはまだ文庫本に出合う前の話。

小学3~4年生ぐらいの頃、児童書のコーナーで見つけて、夢中になって読んだのが秋田書店の「世界怪奇スリラー全集」(白いケース入り)

このジャンルでは、中岡俊哉先生が有名なんだけど、このシリーズで一番好きだった「世界の謎と恐怖」は、(なんと!あの)真樹日佐夫先生が書いています。

検索したら6巻まであるみたいなので、全部は揃えてなかったですね。
(1の「世界の魔術 妖術」と6の「世界の円盤」は持ってなかった)

後発で出た「世界怪奇ミステリー全集」(水色のケース入り)も何冊か持ってたし、その後、学研から出た「怪奇ミステリー」も買いました。

とにかく、不思議な事、怖い事とか、それから虚実の接点的な物が好きで好きでたまらないのです。
今でもオーパーツとか謎の古代遺跡とか大好き。

後に伝奇物や怪奇小説、「奇妙な味」と言われる短編等を読み漁る土台は、ここで形成されていたわけです。


スヴェン・ヘディンの「さまよえる湖」のような本当にあった不思議な話もとても好きで、さらに異郷への旅のお話好きも重なり「さまよえる湖」は大好きな本。
何度も読み返し、旅行に行く時にはよく持って行ってました。
「さまよえる湖」だけ、別にして単発で取り上げても良かったかも。


チャッピー加藤著『小泉今日子の音楽』読了

『小泉今日子の音楽』チャッピー加藤著
辰巳出版 2024年刊

辰巳出版から刊行されたチャッピー加藤の新刊『小泉今日子の音楽』
届いてから2週間以上たってしまいましたが、しっかり読了しました!

調度、パリオリンピック開催中に届いたので、なかなかしっかり向き合う時間が取れず、読み始めたら一気に読めるタイプの本なのに、こんなに時間が経ってしまったというわけ。

「読み始めたら一気に読めるタイプ」と上に書きましたが、実は、届いてすぐに読み始めてはいたのです、パラパラとページを繰っては驚いたり感心したり。
と同時に、KYON2の音楽が聴きたくて仕方ないモードになるのですが、これ聴きはじめるとずっぽり嵌ってしまうのは分かり切っているので、オリンピック期間中はちょっと我慢みたいな感じで自分を律していました。

オリンピック期間中に何かやらなければならないわけでもなく、自分を律する必要なんて全然ないのだけど、オリンピックに夢中になっている最中に、KYON2の音楽にも夢中になるのが難しかっただけです。不器用ですから。

そしてこの数日間、KYON2を聴きまくりながら、チャッピー加藤の本を読みました。
いや、チャッピー加藤の本を読みながら、KYON2の音楽を聴きまくりました。

KYON2の音楽について、シングル39枚+アルバム21タイトル、チャッピー加藤が語りまくっています。
これがかなりすごい!素晴らしい!
縦軸、横軸をしっかり捉えているだけでなく斜めからも、色々な角度から実に面白い考察がなされています。そして中央には、色々な角度から見ても全くブレない小泉今日子という存在。見事です。

音楽的な面からの考察や裏話もすごく面白く、気付かなかった事、知らなかった事が、たくさん出てきます。
一例をあげると「まっ赤な女の子」のドラムにハイハットが入ってない、って知ってましたか?
私は気づいてなかったのだけど、聴いてみると確かに入ってない!
その理由が、また面白い。マジか!?こんな事知らなかったよ!!(読んでみてね)
てな話が盛りだくさん。

また歌詞の考察も見事!これは「言葉」を生業としてきたチャッピー加藤の真骨頂。
これも一例をあげると「半分少女」の1番♪かなしくしく泣いてるわ、と2番♪うれしくしく感じるの、の解釈。これは本当に見事な解釈で、しっかり「半分少女」というタイトルにつながるのが、素晴らしい。(読んでみてね)

全編こういう感じですよ。
読み進むと同時に、音楽を聴いて確かめたくなるような事だらけ。

今、手元にアナログ盤がないのだけど(全部買ってました)、CD引っ張り出して聴いたり、初期のものはサブスクで聴いたり、とにかく聴きまくったこの数日。

「読み始めたら一気に読めるタイプ」と上に書きましたが、専念すれば確かに一気に読めるタイプの本なんだけど、音楽を楽しみながらページを繰る方が、よりこの本を楽しめます。

一気に読んじゃうのは、逆にもったいない!

ちなみに私、この本に協力したことになっていて、「あとがき」に名前まで載せてもらっているのですが、特に何一つ身になるような事はしていなくて、同じKYON2好き友達として雑談した程度なんですよね。なんだか申し訳ない。


ところで、これは、まったくの余談、私の思い出話ですが
私、KYON2のシングル曲で特に思い入れ深い曲が何曲かあって、その1つが「ハートブレイカー」(12inchシングル)。


この本の中では「ハートブレイカー」のTVでのパフォーマンスについて「夜のヒットスタジオ」出演時の事が書いてあります。
その時も確かにすごかったけど、私は「オールナイトフジ」ミニライブで歌った「ハートブレイカー」が別格的に好き。
この時は「ハートブレイカー」が終わると同時に「迷宮のアンドローラ」のイントロが始まるという流れもかっこよかったし、その次「なんてったってアイドル」のはっちゃけぶりも普通の歌番組で見せるものとは違う迫力あるものでした。
80年代、KYON2が出演したTV番組はほとんど全部録画していたのですが、この「オールナイトフジ」でのミニライブが特に大好きで、何度も何度も観ていました。

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』読了

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』
岩波書店 2022年刊

小澤征爾が、昔ばなし研究者の兄・小澤俊夫、エッセイストでタレントの弟・小澤幹雄の3人で語り合った、家族のこと音楽の事、そのほか様々な興味深い話が収載されている。

小澤征爾に関しては、このブログのコンテンツ「私を形成しているもの」の中で小澤征爾『ボクの音楽武者修行』を取り上げています。
その本を読んで以後、人間・小澤征爾のファンになり、もちろん音楽家・小澤征爾も大好きになりました。

とはいえどっぷりと深みにはまっていたわけではないので、小澤征爾関連の本は10冊前後、レコードとCDも合わせて20枚程度しか持っていません。
その程度のゆるいファンではありますが、それなりに深く心を寄せています。


この本は、地元の図書館で借りたもの。

内容的には、主に小澤征爾の活動を追って話をするような形になっている。
これまで、色々な本で読んだ事や、インタビュー、雑誌記事、などで断片的に知っていた事が、実際にはどういう事だったのか、どんな気持ちだったのか、本人や事情を知る兄弟の口から語られる内容は、何か点と点がつながって線になるような面白さで、あっという間に読み終えてしまった。

エピソードとして面白かったのは、山本直純の事(あれほどの才能を持っているのに、その才能をちゃんと使わなかったやつはいない的な話)や、アルゲリッチとのほのぼのエピソード、ロストロポービッチのぶっ飛んだエピソード、カラヤンに師事しながら、バーンスタインのアシスタントになった時の裏話。などなど。

そして、『ボクの音楽武者修行』で重要な役割を果たしたスクーターのその後。
この話はちょっと切なかった。征爾が今(この対談当時)でも、あのスクーターを愛していて、手元に置いておきたかったという事が分かり、胸がキューとなった。

父親の話もものすごく興味深かった。

そして、この本は、今後も何かと読み返したくなる本だと感じた。
(ので、そのうち購入します)


ちなみに今、手元にある小澤征爾関連本は、どれも何度となくページを繰っている本ばかり。
『ボクの音楽武者修行』については、既に書いたので、それ以外で傾向別に3冊ほど紹介いたします。


ガイド本としてとても役にたった一冊

ONTOMO MOOK『小澤征爾NOW』
音楽之友社 1994年刊

NOWと言っても、1994年当時のNOWなので、30年前。
この頃、仕事でイタリアと日本を行き来している時期で、イタリアにいる時は何度となくクラシックの音楽会に足を運び、CDも色々と買い集めていたので、ガイド本として本当に役に立った。
実相寺昭雄が寄稿していたりと読み物としても面白い物が多く、何度も読み返している。


上質なドキュメンタリー映画のような一冊

『小澤征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ欧州を行く』
一志治夫・著/ND SHOW・写真
小学館 2004年刊

この本も『ボクの音楽武者修行』同様に、随分持ち歩いて、色々な所で読んでいたので、表装はけっこうくたびれている。
2004年5月、2週間にわたって行われた、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラのヨーロッパ・ツアーを美しい写真と文章で追った、フォト・ドキュメンタリー本。
所々胸が熱くなる瞬間があり、ときめきに近い何かを感じる。ヨーロッパへの思いも掻き立てられる。
私にとってちょっと特別な一冊。


どこから読んでも楽しめる一冊


『小澤征爾さんと、音楽について話をする』小澤征爾、村上春樹
新潮社 2011年刊

これはもうタイトルどおりの内容。
割と最近(と言っても12年前)の対談本。
内容としても面白いし、引き出される言葉も面白い。
そして、読んでいてすごく納得感を得られる。
パラパラと適当にページを繰り、その時の気分で読み進める、そんな付き合い方をしている本。



小澤征爾関連の書物は、どれも、何度も読み返したくなるものばかり、という結論。

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』読了
2024年7月20日、読了

マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』読了

『この村にとどまる』Resto Qui

マルコ・バルツァーノ Marco Balzano
関口英子 訳

近所の図書館にて、イタリア文学の棚からふと手に取ったこの本。
美しい表紙とタイトルに惹かれて読んでみる事に。

今朝、読了。
感想以前に強く思ったのは、この本は手元に欲しい、という事。
この作者の本をもっと読みたいという事。
この訳者の本ももっと読みたいという事。

作者のマルコ・バルツァーノの事は、この本ではじめて知りました。他にも何冊かの著作があるようです。ただ、日本語に翻訳されている小説は、これだけ(かな?)。
マルコ・バルツァーノという名前はしっかりと心にとどめたので、いつか他の著作も読める事を願います。

訳者の関口英子さんは、以前、白崎容子先生との共著(編訳)『名作短編で学ぶイタリア語』は読んだことがあって、何よりイタリア文学コーナーで、その名前はよく目にしていたし、第1回須賀敦子翻訳賞の受賞者という事も知っていたのだけど、小説の翻訳本を読むのははじめて。すごく読みやすく伝わりやすい翻訳で、はじめから日本語で書かれた小説を読んでいるような感覚で読み進む事が出来ました。


この本を読んで一番強く感じたのは、当たり前の事ながら歴史の中のひとつひとつの出来事には物語があるという事。

これは、これまでに色々な場所で感じ続けてきた事。
色々な場所で、そこで起きた出来事に思いを馳せてきた。

身近な場所で言えば、能仁寺であったり、花魁淵であったり、小河内ダムであったり。
また旅先の様々な場所で。そこで起きた事に関わる一人一人に物語がある事は感じていた。

この本で語られているのは、歴史に翻弄され蹂躙され続けた国境近くの村に住む、一人の女性トリーナの物語。

北イタリアにあるドイツ語圏の村(クロン村)、そこにある日突然ムッソリーニに送り込まれたファシストがやってくる。ドイツ語は禁止されイタリア語を強要される。イタリア語の教師や役人が送り込まれ強制的にイタリア化されていく。

ウクライナやジョージアで起きた事、起きている事が、こういうストーリーなのだと、生々しく考えさせられる。他国に限った事ではなく、日本も台湾や韓国他多くの国々、沖縄や北海道で同じように、言葉を奪い、同化政策を行ってきた。
事実として知ってはいるのだけど、その行為がどういう事なのか、それがどういう感情を持って受け止められたのか、トリーナの(そしてこの村の人々の)身に起きた出来事を通して深く実感させられた。
しかし、未だにこのような侵略行為が行われている事に愕然とし、絶望に近い気持ちになる。

戦争がはじまると、イタリアのファシスト、ドイツのナチスそれぞれの政策によって村は分断される。
村どころかトリーナの家族すら分断される、村の将来に悲観的な娘は、半ば失踪するように親戚と共に姿を消し、息子はナチスの志願兵に、夫エーリヒはイタリアに徴兵され一度は戦地に出るも負傷して帰宅、傷が癒えた後、軍に復帰せず、トリーナと共に山奥へと逃亡を図る。

そこで起きた出来事の生々しさ、戦争中に徴兵逃れをする事、脱走兵になる事とは、こういう事なのだ。これもまた、日本軍の徴兵逃れをして山中に潜んだ人の話、脱走兵の話などと重ね合わせて、ぞっとするような感覚を味わった。そして今、戦争が起きたら私はどう行動するのだろうか(もしくは戦争が起きないようにどう行動するのか)という事まで考えてしまった。決して絵空事ではない。

戦後、どうにか生き残って村に戻ったトリーナと夫エーリヒに今度は、ダム建設の問題がのしかかる。
村はダム湖の中に沈むかも知れない。そんな事などおかまいなしに工事は進む。
ダム建設反対に立ち上がるエーリヒ。そこで無関心な村人たちとの心の分断を経験する。

そして、これも、日本でも各地にあるダムに沈んだ街や、原発建設や諫早湾干拓によって起きた住民の分断などに心を馳せる。一人一人に物語があるのだ。

そうやって様々な事に思いを馳せながら読み進んだこの本。
それは、この本で語られている出来事の生々しさが、そうさせるのだろう。
とはいえ、そこで起きた出来事が生々しいのであって、語られる話の筆致が生々しいわけではない。
むしろすっと心に入ってくるような語り口なのだ。

この物語はフィクションなのだけど、とても深く取材した上で紡ぎ出された物語。
トリーナという人物が実際に体験したかのように書かれたものすごくリアルな話なのだが、実話ではないのだ。
きっと色々な人の口から語られた体験を寄りあわせ、そこから取り出された話の糸を、それこそ紡ぐようにして、丁寧に誠実に創られた話なのだろう。そしてその根底には愛がある。

表紙の幻想的な写真、湖に沈む教会。
私は知らなかったのだけど、実際にあるそうです。

下の写真は、この村に起きた出来事を知ってか知らずか氷上で楽しむ人々。(Googleマップより)
もしこの先、私がここへ行くことがあったのならば、教会の前でしばし涙するかも知れない。

余談ですが、この話の中で、トリーナの母が戦禍を逃れるために(というか誰も世話してくれる人がいなくなるので)親戚の住む村へと避難する。
その村の名前はソンドリオ。
スイスとの国境に近い、山の中の小さな村なのですが……

実は、私、その村へは何度も行っています。
30年ほど前、30歳ぐらいの頃、イタリアのスキー場で派手に骨折して、スイスとの国境の街ティラノにある病院に入院していた事があって、その時、同室だったおじさん(アルトゥーロ)がソンドリオの人。アルトゥーロの一家と仲良くなって、何度か家に泊めてもらったり。
また入院中に仲良くなったドットーレ(お医者さん)もソンドリオの人で、ドットーレの家にも何度か遊びに行っています。

(2012年1月、ソンドリオにて朝のお散歩中、半分寝てます)

ほんの小さなエピソードだけど、馴染みのある村の名前が突然出てきて、軽く驚き、高まり、さらに物語に没入出来ました、というお話でした。

「この村にとどまる」
2024年6月20日、読了

吉村昭『彰義隊』読了

以前、「東京 上野周辺散策」というブログ投稿で、彰義隊に心を寄せている事をほんの少しだけ書きました。
その彰義隊については、これまで明治維新関連の本などで読んだ多少の知識がある程度。
もっと知りたいという欲求がありました。
先日、なんとなく眺めていた地元の図書館の棚に、そのものズバリ『彰義隊』というタイトルの本を発見。
しかも吉村昭著。

吉村昭は、高校生の頃『高熱隧道』を読み、筆力に圧倒され、その描かれた世界に引き込まれるような感覚を味わった事が鮮明に思い出されます。
その後、何冊か読んできましたが、最近はご無沙汰。そして、この『彰義隊』は未読。
自分自身の興味の方向と、いいタイミングで合致し巡り合えました。

一応、小説ではあるものの、あまり物語的ではなく、どちらかと言えば史実を時系列に沿って忠実になぞった形。
とはいえ、そこは吉村昭の文章なので、ぐいぐいと読み進む事が出来ます。

しかしながら彰義隊の話は、本の前半でほぼ終わり。
上野で戦争勃発、彰義隊は散り散りになって敗走。
と知っている話しか出てきませんでした。

私の興味的には、彰義隊と袂を分かつ渋沢成一郎の事など、もっと知りたかった、というか読みたかった。
渋沢成一郎は、彰義隊と袂を分かった後、振武軍を結成し、飯能戦争。
さらに函館にわたり土方歳三らと共に五稜郭での戦闘に参加。
という道を歩むのだけど、まあ『彰義隊』の話なので、そこまで書いてくれとは言いませんが、せめて振武軍の名前ぐらいは出てきて欲しかった。

そして、この本の半分から後ろはほとんど全部、輪王寺宮を中心とした話。
いや、というか、この本の主人公は彰義隊ではなく輪王寺宮(のちにいう所の北白川宮能久親王)でした。

輪王寺宮は上野東叡山寛永寺の山主。
皇族でありながら、上野戦争で彰義隊側に加担するような形になり、朝廷の軍と敵対。
北へと逃れ、奥羽越列藩同盟の盟主として担がれる事に。

その北への逃避行が、本の半分あたりから後半延々と描かれています。
彰義隊という文字すらほぼほぼ出てこない。
ただその各地を転々とする話がとても興味深いので、それはそれでよしという気持ちで読んでいました。

そして、旧幕府側の敗戦後は京で謹慎。謹慎が解けたあとドイツへ6年間に及ぶ留学。帰国後海軍へ。そして日清戦争後の台湾での戦争中に病死するまでが描かれている。

本当にこれは『彰義隊』の話ではなくて、輪王寺宮の伝記だなと思いつつ読了したのだけど「あとがき」を読んで深く納得しました。
文句みたいなことばかり書いてごめんなさい。

曰く
台湾戦線への派遣を願う書面に、宮が上野の山で朝敵となった事を、その時に至っても深い心の傷として意識しているのを知り、ためらうことなく題を「彰義隊」とした。

との事。

なるほど、宮の運命を波乱へ導き心の中の傷としてありつづけた「彰義隊」の話。

新政府の良き軍人として生きようとした輪王寺宮の胸中を思うと複雑な気持ちではあるけれど、輪王寺宮の人生、これまでほぼ知らなかったので、とても興味深く読むことが出来ました。

『エリック・サティ詩集』藤富保男 訳編

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1991

エリック・サティといえば、主にピアノ曲の作曲家として有名だけど、詩集を出している。
(いや正確には詩集を出版したわけではないのだけど、それは後述)

サティの詩(?)から発せられる言葉のイメージがたまらなく好きで、たまにページを繰りたくなる。
どこかシニカルでユーモアがあって、それはサティの音楽と同じ質のもの。

というよりも、これは音楽と一体となった詩。
特に前半に収載された『スポーツと嬉遊曲』は、すべてに手描きの楽譜が添えられている。
もちろんその楽譜は音楽作品としても独立して演奏されている。

例えばこんな具合に

「花火」という短い詩、そして楽譜。

言葉と共に音を聴くと、心の中にイメージが広がりとても面白い。
イメージが広がるというよりも、サティの描いたイメージが伝わると言った方が正しいかも知れない。
「ブランコ」「狩」「ゴルフ」などなど、多種多様なシーンを音と言葉で切り取っている。

単独のピアノ曲を聴く時の楽しみとは、ちょっと違う何か洒落たショートコントでも観るかのような面白みを感じるのだ。

この本の後半は、少し長い単独の詩編が収められているのかな、と初めは思っていたのだけど、あれ、このタイトルは?と調べてみるとほとんど(たぶん全部)曲がある。

なるほど、カヴァーの折り返しに添えられている文をちゃんと読んでいなかった。

「サティは詩人ではない。楽譜の余白にしるされたサティのことばが、よく見ると詩にみえるので、藤富保男さんがそれらを訳し、故人サティにはないしょで「詩集」にしてしまったのである。(読売新聞)

この詩集の成り立ちはそういう事。

冒頭に「音楽と一体になった詩」と書いたけど、それは当たり前。
はじめてこの本に接した時の気持ちで書きました。

この本は、これまでも、これからも、何度もページを繰る。
サティの音楽を繰り返し聴くように。

きっとそんな本。

車浮代『気散じ北斎』読了

読了と書いたけど、実は随分前に読み終わっていました。
この本を読み始めて50ページほど読んですぐに、ちょっとした感想を書いています。
あれは、2月の半ばだったか(車浮代『気散じ北斎』参照)

それからほどなく読み終わっているのだけれど、もしかしたら作者の車さんも読むかも知れない感想を、生半可な気持ちじゃ書けないな、と思っているうちに、どんどんと時は過ぎ今日に至る。

車浮代著『気散じ北斎』実業之日本社刊

50ページ時点でのワクワク感は、(車浮代『気散じ北斎』に)すでに書いた通りで、そのワクワク感のままに読み進みあっという間に読み終わりました。

と言っても、中盤から後半にかけて、読み進むうちに、ひとつだけ心に引っかかる事があったのも事実。

エロティックな描写の見事さや、絵の技法や心に対する北斎の言葉にも感心しきりで、言葉のやりとりを読んでいると、実際にその場面が見えてくるような感覚すら覚えました。
そうやって読み進むうちに、残りページ数が少なくなるにつれて、面白さとは裏腹に、心に引っかかる事がどんどん大きくなっていったのです。

それは、このまま終わってしまったら、ふつうに北斎の人生をなぞって脚色した興味深く面白いお話。で終わってしまうのでは?という考え。
もっと具体的に何が引っかかっていたのかというと、お栄が北斎の実子ではないという、この話ならではの設定は、あまり意味ないものになってしまう、という思いがチラチラと心に浮かぶのです。
と同時に「そんなはずはない!そこが話の胆なのだから。」という思いの方が大きいのではありますが、何せ残りページはどんどん少なくなっていく。もはやワクワク感はハラハラ感に変わっています。

しかし!

そんな浅はかな心の引っかかりなど吹き飛ばしてくれる見事な展開がございました。
正直、変な声が出ました。「ふはっ!」的な感じで。
変な声の後に、少ししてから涙も出ました。
やられた~・・・という清々しい敗北感(?)と同時にしばし放心。

さらに少ししてから「お見事!」という喝さいが心に浮かびます。
これはすごい話だな。
話を思いつくのもすごいし、読み手をこんな気持ちにさせる話の紡ぎ方、構成力にも脱帽。

良き読書体験でした。


と、ここまでが感想文。
ここからは、個人的な話。

昨日は、たまたま良い気候だったので、散歩がてら花見をしてきたのだけど、今日は雨。
この感想文を書くにあたって『気散じ北斎』の後半部分をパラパラと読み返していました。
(「晴耕雨読」ですな、全然耕してないけど)

北斎が晩年を過ごした小布施あたりは若干土地勘があり、岩松院の八方睨み鳳凰図も見た事があります。なので、そういった点でもとてもリアルな感覚として楽しめたのですが、初めに読んだ時にひとつ勘違いしていた所を見つけました。

それは物語の中で重要な場所になる仙ヶ滝の事。
「滝の奥の洞窟に入って裏見ができる」という描写から、私は、小布施にほど近い山田温泉の近くにある「雷滝」を思い出していました。何度か行った事があるのですが、その滝も同じように滝の裏側に入る事が出来るのです。その時は、読み進みたい気持ちが強かったのか、名前の違いに関して「違う呼称もあるのかな」程度に考えて、その滝の光景を思い浮かべていました。

しかし、今回、しっかり読んでみると「松井田宿から中山道を外れた先に」って書いてあるので、小布施近くどころか、まだ群馬。私の気持ちは一足先に小布施周辺にいってしまったようで、しっかり読めていなかった。
って事は「安中あたりに滝の裏側に行けるところあったな」と、そこもまた行った事がある場所でした。分かります、仙ヶ滝。
同じ裏見が出来る滝でも、随分と景色が違う。
今回はしっかりと(物語的に)本物の景色を思い浮かべて読み直す事が出来て、それはそれで面白い心の中の経験。

近いうちに、仙ヶ滝に立ち寄りつつ、小布施への小旅行をしてみたくなった。
『気散じ北斎』聖地巡礼。
美術館などで葛飾北斎、葛飾応為(お栄)の絵を観る時にも、これまでとは違った気持ちで観る事が出来そうだし、この先も、色々な形で楽しませてもらえそうです。


柳田国男『遠野物語』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1975

柳田国男 『遠野物語』(角川文庫版)
柳田国男 『遠野物語』(角川文庫版)

※画像は自分の蔵書

柳田国男の『遠野物語』、この本を初めて読んだのは中学生の頃か、高校生になってからか。
今、文庫本の奥付を見ると「昭和四十九年四月三十日 改訂十二版発行」となっている。
49年4月といえば、私は13歳。読んだのはそれ以後。中3~高1ぐらいの時期に読んだように記憶しているので、大体一致。とりあえず上記、初体験の年は1975としておいた。

日本の民話や伝説には、子供の頃からとても興味があって、一体なぜ興味を持つようになったのかと考えてみると、もしかしたら『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』という水木しげる作品の影響が一番大きかったのかも知れない。

また以前、このブログでも取り上げた『大魔神』や『妖怪百物語』といった映画(「『大魔神』『妖怪百物語』を50年ぶりに観た」参照)も、民話や伝説への興味を後押ししていたような気がする。

マンガ雑誌の特集記事で妖怪たちのプロフィールが紹介されると、食い入るように読んでいた事を思い出す。『妖怪なんでも入門』なんていう子供向け書籍も持っていた。

その延長線上で手にしたのが、この『遠野物語』。

岩手県の山間の里、遠野地方には、数多くの民話や伝説が言い伝えとして存在し、それを柳田国男が収集し書き記したもの。

今では有名な「ザシキワラシ」も登場する。
「ザシキワラシ」を全国区にしたのも、この本がきっかけ?

有名な妖怪(?)だけではなく、今、パラパラと適当にページを繰っただけでも「コンセサマ」「ゴンゲサマ」「ヤマハハ」などなど、色々な名前が目にとまる。
そんな、神様?妖怪?妖精?のような存在についてや、不思議な出来事について語られているのだ。
面白くないわけがない。

この文庫本には『遠野物語』本編以上のヴォリュームで『遠野物語拾遺』が併載されている。
『遠野物語拾遺』の成り立ちについては、解説に書いてあって、簡単に言ってしまえば『遠野物語』の続編として企画されたもの。(その他事情は色々あるので、それ以上知りたい方は、各自調べてください)
『遠野物語拾遺』では、箇条書き的に、言い伝えが紹介されていて、その数二九九篇。
古くからの言い伝えだけではなく、近年の話もあれば、維新の時に、徳川方の一族が逃げ延びて来たという話など興味深い話が多く、どこから読んでも楽しめる。

これを読了して以後、角川文庫版の柳田国男著作は、折々に買って読み続けて来た。

コンプリート癖はないので、全冊あるわけではなく、今、手元にあるのはこれだけ。
特に好きだったのは『桃太郎の誕生』かな。
これ何のタイミングだったか、新刊みたいに書店に平積みされていたものを買った憶えがある。
文庫の初版は昭和二十六年なのに。なんかフェア的なのをやっていたのか?それとも記憶違い?

なんにしろ、これらの本を読んできたおかげで、その後に触れた色々な物語の見方が深まったり、それ以前に出会った物語をさらに深く理解出来たり、という恩恵があった。
また民話や伝説を元にした物語を面白がれる心の土壌が豊かに育ったような気がする。

例えば、手塚治虫『鬼丸大将』、永井豪『手天童子』といったマンガたち。

何よりも「『遠野物語』を読んでいて良かった!」と思ったのは、高橋克彦の『総門谷』を読んだ時。総門谷のある場所は、岩手の早池峰山。
『遠野物語』を読んでいたので、ものすごく馴染みのある地名。行った事はないけど。
他にも馴染みのある名前や場所、逸話が出てきて、胸躍らせながら読んだ。

昨日書いたブログ(「車浮代『気散じ北斎』」)で触れた、伝奇物が好きという土壌が形成されていったのも、子供の頃から連なる民話、伝説好き~柳田国男はじめとする民俗学への興味の広がりも大きく影響しているのでしょう。

この後も、この分野への興味は続き『死者の書』『古事記の研究』など折口信夫の著作や、最近のものでは、小松和彦の『異界巡礼』『日本妖怪異聞録』などなど、目にとまるものを読み続けてきています。
特に好きなのは、江戸~東京の結界を扱ったような内容で、加門七海『大江戸魔法陣』『東京魔法陣』など読んだのだけれど、内容的に物足りないというか、薄いというか、若干残念な感じ。何か面白い本があったら教えてください。

話がそれたところで、この項、ここまで。



車浮代『気散じ北斎』

作家で江戸文化研究家の車浮代さんから、新刊『気散じ北斎』を贈っていただきました。
車さんとは、以前から縁があり、最近もちょっとした仕事を手伝っていたので、そのお礼にいただいたものです。

車浮代著『気散じ北斎』実業之日本社刊

昨夜から読み始めてまだ50ページほどしか読んでいないのですが、既に話に惹きこまれています。
と同時に色々な気持ちが溢れています。

まず驚くのは、北斎の娘、お栄が連れ子だったという設定。
TVの特集番組などで聞く逸話や、杉浦日向子のマンガ『百日紅』で知る、お栄は、北斎譲りの画才を持つ北斎の三女というもの。ふつうにそれを受け入れていたので、これには驚きました。

車先生が調べた文献などに、連れ子と考えられる何かがあったのか?それとも全くの創作なのか?その辺は分かりませんが、連れ子として北斎の元にやってきたお栄が、北斎に心を開いていくまでの描写がとても生々しく心に迫るもので、本当にこういう事があったのかも知れない、という気持ちになっています。

これって、もはや時代物を超越した伝奇SF的な話としても楽しめる話ですよね。
ちなみに私、伝奇物といわれるような話が大好きで、一時、かなり読みまくっていました。
高校生ぐらいの頃に読んだ半村良『石の血脈』『産霊山秘録』あたりから嵌り始めて、山田正紀や高橋克彦の諸作品、などなど。
小学生時代に読んで大好きだった萩尾望都のマンガ(原作は光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』もこの分野だと知る。小説を読んだのは高校生の時。

そんな中、極めつけに好きなのは荒俣宏『帝都物語』。
首都東京を舞台に、実際にいた学者、建築家、政治家、作家、実業家たちが数多く実名で登場する。話自体は荒唐無稽な部分もあるのだけど、そこに登場する数多くの出来事は、実際の歴史に即した実際に起きた出来事や事件に基づいたもの。「これって本当にあった話なの?」という虚実の接点が大好きで、ものすごく長い小説なのに、3回ぐらいは通して読んでいるはず。

そんな大好きな分野とも、ある意味、通じるものがあると感じています。
わくわく感。

この本の帯には、車さんの著作『蔦重の教え』の主人公、蔦屋重三郎が登場する事や「蔦重や写楽、歌麿らとの交わりのなかで浮かび上がる、驚愕の真実とは?」なんて事も書いてある。
その重要キャラクターがまだ誰も登場していない、冒頭50ページの段階で、このわくわく感ですよ。

遠からぬ未来、車浮代ユニバースがさらに広がっていき、各小説の登場人物が交錯するような展開すら想像できます。
そうなったら、ある意味、私の大好きな『帝都物語』の江戸版ですね。と今思った。
魔人とか妖怪とか(たぶん)出てこないけど。

と同時に、荒俣宏『帝都物語』にしろ、車浮代『気散じ北斎』にしろ、その時代に対する憧憬と深い造詣、人物たちに対する思い入れがあり、しっかりと調べ上げ、そして自分なりに脚色し物語を紡ぐ。その行為にとても大きな「愛」が感じられるのです。

「愛」のない行為は、何につけてもダメだな。



と、話がそれそうなので今日の所は筆を置きます。
(キーボードから指を離します)


小澤征爾『ボクの音楽武者修行』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1976

小澤征爾著 「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫 昭和57年初版)

※画像は自分の蔵書(ボロボロ)

今や伝説的な指揮者小澤征爾が、まだ駆け出しの指揮者だった時分に著した、若き日のヨーロッパ武者修行旅などのエッセイ。

この本は、何度も読みました。
大好きな本です。
はじめに読んだのは、高校生の頃、図書館で借りて。
後に文庫本で購入し、それからはふだんの電車移動中や入院中、海外に行く時などにもよく持ち歩いていました。


こんな事ってあるの!?というぐらいすごい話の連続。
しかも本当にあったすごい話。

小澤征爾が若い頃、ヨーロッパへと旅立ちます。
富士重工製の125ccスクーターと共に船で。

ほとんどノープランで出かけ、マルセイユからパリまでのスクーター旅、背中にはギターを背負って。

パリでたまたま知った指揮コンクール(ブザンソン国際指揮者コンクール)に出場。
そして優勝!

そこからは、あれよあれよと、シャルル・ミュンシュやバーンスタインとも邂逅。
さらにはカラヤンの弟子に!

語られるエピソード全てがあまりにもぶっ飛びすぎていて、ものすごく面白い。
しかも、ものすごい話なのに自慢話のような感触は全く感じられず、サラっと面白く読ませてくれるのは、人柄なのでしょう。

とにかく読後感が爽やか。

ずーっと後に、小澤征良(小澤征爾の娘)のエッセイ「おわらない夏」を読んだ時にも、全く同じような爽やかな気持ちになりました。

私は、人と自分を比べて、羨んだり妬んだりしない性質なのですが、これには、こんな環境に生まれたら面白かっただろうなぁ~と軽い憧憬のような気持ちは覚えました。

でも、いくら環境が整っていたとしても、これが出来たのは紛れも無く「小澤征爾」だったからこそ。

※コロナ禍巣籠り中に他SNSに投稿した物を編集、転載したものです