Category Archive : BOOKS

柳田国男『遠野物語』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1975

柳田国男 『遠野物語』(角川文庫版)
柳田国男 『遠野物語』(角川文庫版)

※画像は自分の蔵書

柳田国男の『遠野物語』、この本を初めて読んだのは中学生の頃か、高校生になってからか。
今、文庫本の奥付を見ると「昭和四十九年四月三十日 改訂十二版発行」となっている。
49年4月といえば、私は13歳。読んだのはそれ以後。中3~高1ぐらいの時期に読んだように記憶しているので、大体一致。とりあえず上記、初体験の年は1975としておいた。

日本の民話や伝説には、子供の頃からとても興味があって、一体なぜ興味を持つようになったのかと考えてみると、もしかしたら『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』という水木しげる作品の影響が一番大きかったのかも知れない。

また以前、このブログでも取り上げた『大魔神』や『妖怪百物語』といった映画(「『大魔神』『妖怪百物語』を50年ぶりに観た」参照)も、民話や伝説への興味を後押ししていたような気がする。

マンガ雑誌の特集記事で妖怪たちのプロフィールが紹介されると、食い入るように読んでいた事を思い出す。『妖怪なんでも入門』なんていう子供向け書籍も持っていた。

その延長線上で手にしたのが、この『遠野物語』。

岩手県の山間の里、遠野地方には、数多くの民話や伝説が言い伝えとして存在し、それを柳田国男が収集し書き記したもの。

今では有名な「ザシキワラシ」も登場する。
「ザシキワラシ」を全国区にしたのも、この本がきっかけ?

有名な妖怪(?)だけではなく、今、パラパラと適当にページを繰っただけでも「コンセサマ」「ゴンゲサマ」「ヤマハハ」などなど、色々な名前が目にとまる。
そんな、神様?妖怪?妖精?のような存在についてや、不思議な出来事について語られているのだ。
面白くないわけがない。

この文庫本には『遠野物語』本編以上のヴォリュームで『遠野物語拾遺』が併載されている。
『遠野物語拾遺』の成り立ちについては、解説に書いてあって、簡単に言ってしまえば『遠野物語』の続編として企画されたもの。(その他事情は色々あるので、それ以上知りたい方は、各自調べてください)
『遠野物語拾遺』では、箇条書き的に、言い伝えが紹介されていて、その数二九九篇。
古くからの言い伝えだけではなく、近年の話もあれば、維新の時に、徳川方の一族が逃げ延びて来たという話など興味深い話が多く、どこから読んでも楽しめる。

これを読了して以後、角川文庫版の柳田国男著作は、折々に買って読み続けて来た。

コンプリート癖はないので、全冊あるわけではなく、今、手元にあるのはこれだけ。
特に好きだったのは『桃太郎の誕生』かな。
これ何のタイミングだったか、新刊みたいに書店に平積みされていたものを買った憶えがある。
文庫の初版は昭和二十六年なのに。なんかフェア的なのをやっていたのか?それとも記憶違い?

なんにしろ、これらの本を読んできたおかげで、その後に触れた色々な物語の見方が深まったり、それ以前に出会った物語をさらに深く理解出来たり、という恩恵があった。
また民話や伝説を元にした物語を面白がれる心の土壌が豊かに育ったような気がする。

例えば、手塚治虫『鬼丸大将』、永井豪『手天童子』といったマンガたち。

何よりも「『遠野物語』を読んでいて良かった!」と思ったのは、高橋克彦の『総門谷』を読んだ時。総門谷のある場所は、岩手の早池峰山。
『遠野物語』を読んでいたので、ものすごく馴染みのある地名。行った事はないけど。
他にも馴染みのある名前や場所、逸話が出てきて、胸躍らせながら読んだ。

昨日書いたブログ(「車浮代『気散じ北斎』」)で触れた、伝奇物が好きという土壌が形成されていったのも、子供の頃から連なる民話、伝説好き~柳田国男はじめとする民俗学への興味の広がりも大きく影響しているのでしょう。

この後も、この分野への興味は続き『死者の書』『古事記の研究』など折口信夫の著作や、最近のものでは、小松和彦の『異界巡礼』『日本妖怪異聞録』などなど、目にとまるものを読み続けてきています。
特に好きなのは、江戸~東京の結界を扱ったような内容で、加門七海『大江戸魔法陣』『東京魔法陣』など読んだのだけれど、内容的に物足りないというか、薄いというか、若干残念な感じ。何か面白い本があったら教えてください。

話がそれたところで、この項、ここまで。



車浮代『気散じ北斎』

作家で江戸文化研究家の車浮代さんから、新刊『気散じ北斎』を贈っていただきました。
車さんとは、以前から縁があり、最近もちょっとした仕事を手伝っていたので、そのお礼にいただいたものです。

車浮代著『気散じ北斎』実業之日本社刊

昨夜から読み始めてまだ50ページほどしか読んでいないのですが、既に話に惹きこまれています。
と同時に色々な気持ちが溢れています。

まず驚くのは、北斎の娘、お栄が連れ子だったという設定。
TVの特集番組などで聞く逸話や、杉浦日向子のマンガ『百日紅』で知る、お栄は、北斎譲りの画才を持つ北斎の三女というもの。ふつうにそれを受け入れていたので、これには驚きました。

車先生が調べた文献などに、連れ子と考えられる何かがあったのか?それとも全くの創作なのか?その辺は分かりませんが、連れ子として北斎の元にやってきたお栄が、北斎に心を開いていくまでの描写がとても生々しく心に迫るもので、本当にこういう事があったのかも知れない、という気持ちになっています。

これって、もはや時代物を超越した伝奇SF的な話としても楽しめる話ですよね。
ちなみに私、伝奇物といわれるような話が大好きで、一時、かなり読みまくっていました。
高校生ぐらいの頃に読んだ半村良『石の血脈』『産霊山秘録』あたりから嵌り始めて、山田正紀や高橋克彦の諸作品、などなど。
小学生時代に読んで大好きだった萩尾望都のマンガ(原作は光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』もこの分野だと知る。小説を読んだのは高校生の時。

そんな中、極めつけに好きなのは荒俣宏『帝都物語』。
首都東京を舞台に、実際にいた学者、建築家、政治家、作家、実業家たちが数多く実名で登場する。話自体は荒唐無稽な部分もあるのだけど、そこに登場する数多くの出来事は、実際の歴史に即した実際に起きた出来事や事件に基づいたもの。「これって本当にあった話なの?」という虚実の接点が大好きで、ものすごく長い小説なのに、3回ぐらいは通して読んでいるはず。

そんな大好きな分野とも、ある意味、通じるものがあると感じています。
わくわく感。

この本の帯には、車さんの著作『蔦重の教え』の主人公、蔦屋重三郎が登場する事や「蔦重や写楽、歌麿らとの交わりのなかで浮かび上がる、驚愕の真実とは?」なんて事も書いてある。
その重要キャラクターがまだ誰も登場していない、冒頭50ページの段階で、このわくわく感ですよ。

遠からぬ未来、車浮代ユニバースがさらに広がっていき、各小説の登場人物が交錯するような展開すら想像できます。
そうなったら、ある意味、私の大好きな『帝都物語』の江戸版ですね。と今思った。
魔人とか妖怪とか(たぶん)出てこないけど。

と同時に、荒俣宏『帝都物語』にしろ、車浮代『気散じ北斎』にしろ、その時代に対する憧憬と深い造詣、人物たちに対する思い入れがあり、しっかりと調べ上げ、そして自分なりに脚色し物語を紡ぐ。その行為にとても大きな「愛」が感じられるのです。

「愛」のない行為は、何につけてもダメだな。



と、話がそれそうなので今日の所は筆を置きます。
(キーボードから指を離します)


小澤征爾『ボクの音楽武者修行』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1976

小澤征爾著 「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫 昭和57年初版)

※画像は自分の蔵書(ボロボロ)

今や伝説的な指揮者小澤征爾が、まだ駆け出しの指揮者だった時分に著した、若き日のヨーロッパ武者修行旅などのエッセイ。

この本は、何度も読みました。
大好きな本です。
はじめに読んだのは、高校生の頃、図書館で借りて。
後に文庫本で購入し、それからはふだんの電車移動中や入院中、海外に行く時などにもよく持ち歩いていました。


こんな事ってあるの!?というぐらいすごい話の連続。
しかも本当にあったすごい話。

小澤征爾が若い頃、ヨーロッパへと旅立ちます。
富士重工製の125ccスクーターと共に船で。

ほとんどノープランで出かけ、マルセイユからパリまでのスクーター旅、背中にはギターを背負って。

パリでたまたま知った指揮コンクール(ブザンソン国際指揮者コンクール)に出場。
そして優勝!

そこからは、あれよあれよと、シャルル・ミュンシュやバーンスタインとも邂逅。
さらにはカラヤンの弟子に!

語られるエピソード全てがあまりにもぶっ飛びすぎていて、ものすごく面白い。
しかも、ものすごい話なのに自慢話のような感触は全く感じられず、サラっと面白く読ませてくれるのは、人柄なのでしょう。

とにかく読後感が爽やか。

ずーっと後に、小澤征良(小澤征爾の娘)のエッセイ「おわらない夏」を読んだ時にも、全く同じような爽やかな気持ちになりました。

私は、人と自分を比べて、羨んだり妬んだりしない性質なのですが、これには、こんな環境に生まれたら面白かっただろうなぁ~と軽い憧憬のような気持ちは覚えました。

でも、いくら環境が整っていたとしても、これが出来たのは紛れも無く「小澤征爾」だったからこそ。

※コロナ禍巣籠り中に他SNSに投稿した物を編集、転載したものです

五味康祐 『西方の音』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1986

五味康祐 『西方の音』(1969年 新潮社)

※画像はネット上から拝借

中学生の頃、オーディオに興味を持ち、その後も、常に気になりつづけているオーディオの世界。
そしてオーディオへの興味から読んだのがこの本。
五味康祐 『西方の音』

いつ読んだのか正確な所は思い出せないのだけど、まあ25歳ぐらい1986年という事にしておきましょう。

古本で単行本を購入(箱入りのハードカヴァー版)、今は手元にないのでおぼろげな記憶に頼るしかないのだけど、かなり毒舌でベートーヴェンのピアノ協奏曲をこきおろしたりしている。
しかし、それは音楽に対する愛ゆえの毒舌。
だから、まったく嫌な気持ちにはならない。

一番、印象に残っているのは、タンノイのスピーカー、オートグラフを日本で初めて購入(個人で輸入)した話。

船便で届いたそれを見た時の大きな喜び、わくわくしながら音を出し、はじめて出た音に愕然とがっかり、しかし配線を間違えた事に気づき、ちゃんと出た音を聴いた時の喜び。
(これ記憶だけで書いているので、こういう表現じゃないし、間違えがあるかも知れません)

その大きな感情の浮き沈みに、こちらまでドキドキしながら読んだ事を鮮やかに憶えています。

そして、もうひとつ印象に残っているのは、娘さんがベーゼンドルファーのピアノを弾いていたという話。
ベーゼンドルファーというオーストリアのピアノメーカーの事は、この本を読んで初めて知り、それ以来とても気になっていました。

ある日、宮沢明子さんのモーツァルト・ピアノ・ソナタ集をCD屋さんで手にした時に、ベーゼンドルファーのピアノを使っているという事が(1つのセールスポイントとして)帯に書いてありました。

そこに興味を抱いて購入。
後に知ったのですが宮沢明子さんは有名なベーゼンドルファー使い。

さらにこの録音を担当したのが菅野沖彦氏。

オーディオ評論家としての菅野沖彦は、良く知っていたのですが、レコーディングエンジニアとしての菅野沖彦に触れるのはこれが初めて。

そのCDは愛聴盤になりましたが、その事に関しては、また別の話として。

オーディオへの興味から「西方の音」を読む→ベーゼンドルファーのピアノを知る→ベーゼンドルファーに関心を持ち、そのピアノを弾く宮沢明子のCDを購入→そのCDのエンジニアは菅野沖彦→菅野沖彦はオーディオ評論家としてかねてから良く知る存在

という感じで、オーディオを起点として、また旧知のオーディオの世界へ戻る、そんな面白い展開をもたらしてくれた本でもあります。

※コロナ禍巣籠り中に他SNSに投稿した物を編集、転載したものです

「本棚」

もしくは「人は見たいものしか見えない」話。

明日は、どるしゃあ今年初LIVE(Goodstock Tokyo ワンマン公演)。

セットリストをあれこれ考えていて、久しぶりに「本棚」でもやろうかな、と思ったのです。
(「本棚」の成り立ちや歌詞などは下のリンクを参照してください)
「本棚」(Live動画アップしました)のこと

そして、1つ思い出した事が。
それは、20年ほど前、当時の家には巨大な本棚(レコード棚、別の部屋に書庫、廃業したCD店からもらった巨大なCD陳列用棚など)がありました。

本棚は高さ3m以上あり、上の方の本は、梯子をつかって取るシステム。
その本棚に並ぶ本の背表紙を見ながら作った歌が「本棚」。

その部屋にある日、近所の奥様達が来ることになりました。
そして、本棚やら何やらを見ながら「うわ~すごい!!」と驚いていました。

それから数日後、お会いした近所の方から
「どるたんさんのうちって、マンガ本がすごくいっぱいあるんでしょ?」
と声をかけられました。
「Aさんから聞いたんですけど、壁一面の大きな本棚に外国の図書館みたいに梯子があって、そこにマンガ本が何千冊も並んでる。って」

いや、確かにマンガ本は何千冊も持っているのだけど、その本棚に並んでいるのはごくごく1部で、手塚治虫のごく1部、水木しげるのごく1部、あとは、萩尾望都、大島弓子、山岸凉子、竹宮恵子、内田善美など、全部で100冊程度。
その辺が、本棚の一角にちょこんとあるだけなのです。
それ以外の膨大なマンガ本は、棚には並んでいなくて、箱に入れて書庫に押し込まれていました。
「あしたのジョー」も「おそ松くん」も「ドカベン」も「サイボーグ009」も「父の魂」も「バリバリ伝説」も「1・2の三四郎」も「沈黙の艦隊」も「アリエスの乙女たち」も「いつもポケットにショパン」も「BANANA FISH」も「浮浪雲」も「同棲時代」も、何もかも。
本棚には並んでいない。

その本棚の大部分は、小説他活字本で筒井康隆全集全巻及び夥しい数の筒井康隆関係。どでかく重いポー全集全3巻、「フローラ逍遥」他美しい装丁の澁澤龍彦ハードカバー本の数々、集英社のラテンアメリカの文学、講談社ブルーバックスのコーナーなどなどなどなど、天井近くの文庫本エリアには、国枝史郎伝奇文庫全冊、春陽文庫版江戸川乱歩全冊、創元推理文庫のラヴクラフト全集、河出文庫の稲垣足穂、福武文庫の内田百閒、角川文庫の柳田國男、荒俣宏、夢野久作、新潮文庫の太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎、カミュ、カフカ、そしてヴェルレーヌやコクトーの詩集シリーズなどなどなどなどなどが、ぎっしりと並んでいた。

活字本とマンガ本の比率は9:1、いや、マンガ本5%程度といったところ。
でも、そのAさんには、全部マンガ本に見えたらしい。

一角に並ぶ100冊ほどのマンガ本を見て、それ以外のすべての本もマンガ本に見えたらしい。

そんな事ってある!?

と、その時は驚いたのだけど、実は、そういう人の方が多いのかも知れない。
なんにも見えてない人、気づいていない人、本当に多いから。

車に乗っていても、目の前の歩道に自転車が来ているのに、車が途切れた瞬間に飛び出そうとするドライバー、めちゃくちゃよく見かける。車しか目に入っていない。車にだけ気をつければいいと思っている。

めちゃくちゃな事やられていても、自民党が一番ましだと思っている人とか。
ちょっと話が違うか?これは変化を嫌う人の話?現状維持が一番だと思っている人の話?
現状維持も出来てないんだけど。

話がズレました。

自分に分かる事、興味がある事以外何も見えない人っているのですね。
まあ、逆に私が何にでも興味がありすぎるのかも知れないけど。

昨年、どるしゃあのツアーで行った宇都宮のおかりやさんに並んでいる本やレコード、貼られているポスターやチラシなんか隅から隅まで見たくなってしまった、というか時間の許す限りあれこれ見まくっていたし、それは青梅のアトリエよぎでも同じ。

宇都宮 キッチンカフェおかりや
青梅 アトリエよぎ

Goodstock Tokyoのレコード棚や本棚も。
深谷シネマの本棚や掲示物も隅々まで見て来たし。



自分に分かる事、興味がある事以外何も見えない人、見ようとしない人って、やっぱりつまらない人なのよな。
リアル社会の多くの人と話が合わないのは、そういう事なのかも知れない。
まあ何十年も生きてきて、話が合わない人や価値観が違う人とは自然と付き合いがなくなったし、SNS時代になって話が合う人とつながりやすくなった結果、最近は周りには良い関係性の人、何かしら秀でている人、面白い人しかいません。


写真は最近(2022年11月頃)の隙間家具的本棚の一角

そして最後にしつこく告知、明日です!
よろしく~

2024年1月21日(日)
大岡山 Goodstock Tokyo

DORUTAN+SHARMIN : RECITAL SERIES Vol.29
(どるたん+しゃあみん ワンマン公演)

どるたん+しゃあみんワンマン公演&有料配信ライブ

12:30開場 13:00開演(配信スタート)
前売り・予約 3,000円/当日 3,500円(税込み・ドリンク別)
配信視聴チケット 3,000円
有料配信詳細・チケット購入URL
https://www.staglee.com/events/8184/

〒145-0062
東京都 大田区北千束3−20−8
スターバレーII B1F
03-6451-7396


『半島を出よ』村上龍

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


2005

『半島を出よ』村上龍 2005年 幻冬舎

※画像は私の蔵書

本の話。
これまで主に10代の頃までに読んだ本の事を書いてきたけど、時代は一気に2000年代。
私、40代になっています。

とりあげるのは、『半島を出よ』村上龍。

村上龍の長編小説は、ほとんど読んでいるのですが、その中でも、これはかなり好き!

村上龍(の著作)との出合いは、高校生の頃。
1976年、デビュー作の『限りなく透明に近いブルー』が、芥川賞をとり話題になっていましたが、少しブームが落ち着いた頃に読みました。

高校3年生ぐらいの頃かな?
読後感は、ちょっとどんより。

馴染みのある場所(福生)が舞台という事もあり、とても読みやすかったのですが、内容的には、正直あまり好きではありませんでした。
「セックス、ドラッグ、ロックンロール」的な世界が苦手(というかちょっと嫌い)なのかも知れません。

どちらかというと私「音楽、文学、寺社仏閣」的な世界が好きなのです。
あ!!今、これ適当に書いたんだけど、偶然韻を踏んでますね!

ドラッグどころか、タバコも咥えた事すらない(というか大嫌いだ)し、お酒もあまり飲まないからなぁ・・・
乱痴気騒ぎも興味なし。というよりも嫌い。
あと落ちていく感じが苦手なのかも。
変な上昇志向はもっと苦手だけど。

でも、なぜかその後も気になって、ずーっと読み続けています。
村上龍。

『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』は、2、3回読んだかな。

『5分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス』は、今手元にないんだけど、あれば、(コロナ禍の)このタイミングで読み返してみたい。

『69』は、それまでの村上龍作品的な空気感と違って、さわやかな読後感。笑いながら読みました。そしてラストに納得の一言。

そんな風に10代の頃から、村上龍作品と付き合いつづけてきました。
という事で、本題。

『半島を出よ』

簡単に言っちゃうと、北朝鮮の特殊部隊が福岡ドームを占拠!どうしましょう!?って話。(簡単すぎ?)

これが実にリアルで、緊迫感あり、北朝鮮の特殊部隊、日本政府、自衛隊など、様々な視点から書かれているので、常に様々な角度からこちらの思考を促してくる。

スリリングで面白い。
ぐいぐいと引き込まれるように一気に読了。

筆力!!

これ実際に起こっても不思議じゃない。

北朝鮮の物らしき船が日本に漂着しているニュースをたまに見るけど、その度に、この『半島を出よ』を思い出してしまいます。

今思ったけど、このリアル感は『シン・ゴジラ』にもつながりますね。


(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

「隠された十字架 – 法隆寺論」 梅原 猛 著(新潮文庫)

私を形成しているもの

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※ただの思い出話です。


1981

※画像はネット上から拝借

この分厚い文庫本が本屋さんの平台に積まれているのを見た瞬間、飛びつくように手に入れました。

子供の頃から、奈良大好き、法隆寺大好き、夢殿大好き、聖徳太子大好きでした。
そして「日出処の天子」大好きなので。
(調度この文庫本が出た時「日出処の天子」連載中)

固い本版の『隠された十字架』は、中学生の頃から何度か本屋さんで手にとり立ち読みしていたので、文庫版が出たのが本当に嬉しかった。
目次を追うだけでそそられます。

小学生の頃、お城やお寺のプラモデルを作る事にはまっていた時期があるのですが、同じ趣味を持つ同級生の家には夢殿のプラモデルがありました。
その美しい八角形のお堂、夢殿というロマンチックな名前に魅了されました。

子供の頃、その夢殿は、聖徳太子の書斎的な場所だと思っていました。
確か「日出処の天子」でも、夢殿にこもる場面があったような・・・(今、手元にないので確認出来ず)

しかし、この本によると、聖徳太子の死後、太子の怨念を鎮めるために建てられた、という説。

他にも意外な説が次々と展開され、若干興奮気味に一気に読み終えた(と言っても分厚い本なので数日かかりました)のですが、今は、あまり憶えてないかも・・・この手の本は、手元に置いてたまにパラパラと目を通したいですね。

いつかまた手に入れよう。

そんな中でも、特に記憶にあるのは、秘仏とされ数百年の間、人目に触れる事なく閉ざされていた救世観音を、アメリカ人東洋美術史家フェノロサが強引に開けさせる場面。

その話はなんとなく知っていたのですが、フェノロサの、仏罰を全く恐れずに、強引に開けさせた態度に若干憤慨しながら読みました。
「罰あたればいいのに!」と。

救世観音といえば、ちょっと本の話からはズレますが、約20年ほど前、1人バイクで天川へ行く途中、法隆寺へ寄りました。

朝早く着き、開門と同時に中に入ったのですが、夢殿の前に行くと、なんと普段は拝む事の出来ない救世観音がその時偶然にも開帳中!!

狂喜しながら、しばし救世観音の前に佇み、救世観音と対峙し濃密な時間を過ごす私。

そこに修学旅行の集団。
バスガイドさんがよく通るハッキリとした声で救世観音の説明をしている。
フェノロサが強引に開けさせた話もしている。

そうそう、救世観音、今日は開帳中、まさにここにいらっしゃるのですよ。

するとガイドさん
「その救世観音ですが、秘仏ですので、現在も観る事は出来ません(キッパリ)」
と言い、救世観音と対面中の私の後ろをすたすたと通り過ぎてしまいました。

「え~~~~~~~!!!!」

せっかく開帳期間中に来たのに、なんと!!
かわいそうな学生達、そして情報知らずのガイドさん。
いつもは開いてないかも知れないけど、そんなぁ~
ルーティンどおりに行動しちゃダメでしょ!

今思えば、追いかけて行って教えてあげれば良かったのかなぁ(人見知りなので無理)
というお話でした。(事実です)


※最近は救世観音けっこうな頻度で観られるみたいですね。WEBサイトには「春秋の特別な期間だけ開扉されます。」とありました。


(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

「不思議の国のアリス」

私を形成しているもの

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※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1980

今回取り上げるのは、東京図書から刊行された「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の2冊。

※画像はネット上から拝借

「不思議の国のアリス」石川澄子訳
「鏡の国のアリス」高山宏訳
ルイス・キャロル著、マーチン・ガードナー注
(1980年 東京図書)

この2冊のアリス本は、1980年に刊行された時に、即買い。
当時、書店でアルバイトをしていたので、アリス関連の本はその時に随分と揃えました。

その時、買った中に「不思議の国のキャロル」という大判のハードカバー写真本があり、これは、ルイス・キャロルが撮影した少女写真集みたいな本で、これも取り上げようとネット検索したのですが、全くヒットしませんでした。
(※記憶に間違いがありました。本当のタイトルは「キャロル・イン・ワンダーランド」ふつうに検索出来ました。勝手に訳してしまった。)

あとは「ルイス・キャロル詩集」「スナーク狩り」他、色々と買ってたな。
物心ついた頃から、不思議な物、ナンセンスな物、異形の物に魅かれ続けているのです。
(自分でやっていたバンド名も不思議なバレッツに不思議軍)
アリス好きもその流れからかな。
あと、テニエルの挿絵にも強く魅かれています。

さて、この2冊、とても特徴的な事は、ものすごくたくさんの注釈がついている事。
これが実に面白かった。
ジョーク的な物って、出典が分からないと「なんのこっちゃ?」ってなってしまうのですが、そういう所全部こと細かに解説してくれています。
注をつけているマーチン・ガードナーという方は、数学者という事で、数学者的な凝ったイタズラ的解説なんかも盛り込まれています。
(そういえば高校生の頃「四次元の国のアリス」という数学的物理学的文庫本も読みました)

また、この本、装丁が実にシャレているのです。
ソフトカバーで、紙質、インクの色などとても好きでした。
軽くて持ち運びしやすいので、当時よくバッグの中に入れて持ち歩き、電車の中、公園、喫茶店などでパラパラと開いては、楽しんでいました。どこから読んでも面白いので。

ところで、この本と出合ったのは、もう40年以上も前?
ちょっと信じられません。

(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

小松左京『さらば幽霊』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1974

私にとって、初めての小松左京がこれ。

『さらば幽霊』小松左京自選短編集 (講談社文庫)


『さらば幽霊』小松左京自選短編集 (講談社文庫)

子供時代、毎年夏休みの数日間は伊豆で過ごしていた。
幼児期から小学校低学年の頃は熱海のホテルで。
徐々にディープになり、小学5年生からの数年間は、叔父一家と一緒に西伊豆雲見の民宿で。

伊豆に行く前には、何冊かの本を買い、持って行くのが恒例で、きっとこの文庫本『さらば幽霊』は最後の旅の友。
たぶん中学1、2年生の時。

本を買う時に、小松左京と言う名前は意識していなかったかも知れない。
なんとなく面白そう、それだけの理由で買った気がする。
表紙の絵(和田誠画)もかわいらしくて、読みやすそうな気がしたのだ。
表紙の印象から、ちょっとユーモアのある怖い話程度に考えていたのだが、いやいや、かなり怖かった。

「くだんのはは」も入っていたかな?
今、本が手元にないので、ネットで検索してみたのだが・・・

その後、小松左京は何冊も読んだので、記憶が混ざってしまったようです。この本には「くだんのはは」は、入っていなかった。

てっきりこれに収載されていると勘違いしていました。

これに入っているのは、

  • さとるの化物
  • 霧が晴れた時
  • 花のこころ
  • 安置所の碁打ち
  • ムカシむかし……
  • 比丘尼の死
  • 忘れられた土地
  • 保護鳥
  • さらば幽霊
  • 海の視線

パッと内容が浮かぶものもあれば、全然思い出せない物もある。
「霧が晴れた時」本当に怖い、一時期こんな事ばっかり考えてたなぁ・・・
永井豪の短編「ススムちゃん大ショック」的な怖さ(分かる人だけ分かって)

内容はあまり憶えていないのに、この本を読んだ時の心模様と同時に心に焼き付けられた西伊豆雲見の風景は妙に鮮やかだ。


すると、私が「くだんのはは」を読んだのは一体全体どの本でしょう?

と、ちょっと調べてみたら、新潮文庫の『戦争はなかった』でした。
これも中学か高校生ぐらいの時に読んだような気がするけど、怖かったなぁ

ちなみにこんなラインナップ

  • 影が重なる時
  • 四次元ラッキョウ
  • 青ひげと鬼
  • 釈迦の掌
  • 生きている穴
  • 完全犯罪
  • 木静かならんと欲すれど……
  • 失業保険
  • 運命劇場
  • 戦争はなかった
  • くだんのはは
  • 四月の十四日間

「影が重なる時」も、とても怖くて大好きな話。

「戦争はなかった」は、ある日突然自分以外の人から戦争の記憶が全て消えている、という話で、今こそ読むべき話かも。

手塚治虫にも(大名作「カノン」はじめ)戦争の影を感じる作品が多いけど、戦争を体験した世代ならではの重み凄みを感じる。


手塚治虫や小松左京、こういう作品を読んで育った者としては、私達が戦争に加担するような事は、絶対にあってはいけないと思うのです。

自民党の方々は、少年時代に、一体どんな書物や映画に触れて育ったのだろうか?

筒井康隆「遠い座敷」

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1981

今回は、筒井康隆の短編を1つだけ取り上げます。
筒井作品との出会いは、中学生の時。
忘れもしない飯能銀座通りの、今はなき流星堂書店で角川文庫版の「幻想の未来」を衝動買い。
以後、筒井康隆全集刊行まで、いや、断筆宣言前までは、本になった物は全部読んできたはず。
断筆からの復帰後、以前ほどの情熱で追いかける事はなくなったけど、それでも、そこそこ読んできました。

なので、「私を形成する」筒井康隆作品は、色々とあげたくなるのですが、ある分野、ある種恐怖心に近いような心の中の変な部分をくすぐられた特別な作品としてひとつ。


それは「遠い座敷」
短編集『エロチック街道』に収載された作品。

『エロチック街道』筒井康隆
『エロチック街道』筒井康隆

1981年発売、その時私は、20歳。
この頃には、文庫化されていた筒井作品は全て読み終えてしまい、ハードカバーの単行本を発売と同時に買うようになっていました。

これも発売と同時に購入。
この本には、有名な「ジャズ大名」他、種々雑多な作品が収載されていて、どの一編についても語りたい事があるのですが、この「遠い座敷」の読後感(というよりも読中感)は、後にも先にも感じた事の無いほど、特別なものでした。

という事で「遠い座敷」です。

内容に関しては、まだ読んでいない人のために、あまり触れたくはないのですが、まあ、とにかく子供の心の奥深く存在する恐怖心をくすぐりまくるような(読んだ時は大人になっていましたが)そんな作品なのです。

日本の土着的な風習であるとか、家族の中だけにある秘密的な何かだとか、からの、昔ながらの日本家屋、そこに置かれている物などに感じる恐怖感。
そんな物たちがありえないシチュエーションの中で次々に襲いかかってきます。
いや別に襲いかかってこないのだけど、心の中にどんどん大きく広がっていく感じかな?


みなさん、例えば、古くて大きな温泉旅館、変な増築を繰り返して迷路のようになってしまった旅館の廊下、そんな物にそそられる感覚ってありませんか?
ちょっと怖いけど、あちこち探検したくなる感じ。

私にとっては、父の実家がそんな存在でした。
山手線某駅前にある酒屋で、現在は6階建てのビルになっているのですが子供時代は、木造二階建て地下一階で横に広く、迷路的と言うには大袈裟ですが、通り抜けできる所と出来ない所などあり、ひとりであちこちの部屋を回って遊んでいると、時折とても心細くなり、怖くなる事がありました。
仏間に置いてある写真や置物に恐怖を覚えたり。地下の倉庫に降りていく暗い階段にゾクゾクしたり。
今でも時折夢に出てきます。

(ネット上に当時のその建物の写真があったので勝手に拝借しました。ごめんなさい。)

そんな原体験があって「遠い座敷」に感じる恐怖心が増幅されたのかも知れませんが、このような子供時代の恐怖感覚は、誰にでも多かれ少なかれ残ってはいないでしょうか?


その感覚が、この「遠い座敷」を読んでいると、ぐいぐいぐいぐいと引っぱり出されて来るのです。
その感覚は、ページを繰る度に、大きくなり、ついには「ひっ!」「うはっ!」と声が出るようになります。
読み進めると、さらに怖さは加速して、ついには「ひゃひゃひゃひゃひゃ!」などと(怖すぎて)笑いながらのたうち回っていました。
大袈裟に聞こえるかも知れませんが、実際に、狭い部屋のベッドの上で、この本を読みながら笑いのたうち回った時の感覚は今でも妙に体感として残っているのです。


まあ、誰もがそんな状態になるとは思いません。
私の場合、たまたま、実家体験と重なって恐怖感が数割り増しになったのかも知れません。
ただ、この本を読んだ後、やはり読み終えたばかりの友人との会話。


(どちらかが)「あれ怖くなかった?」
(二人同時に)「遠い座敷!!」
(二人同時に)「ひゃは~!!!」


そんな事もありましたので、ある程度共通した感覚があるものと思われます。


※画像はネット上から拝借