私を形成しているもの
今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。
1976
小室等『いま生きているということ』(1976年発売)
歌「いま生きているということ」との出会い
1976年のある日、私、高校1年生の時。
夜遅い時間帯のTV番組に小室等さんが登場。(番組名などは失念)
その前年のフォーライフ・レコード(吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、小室等の4人で設立したレコード会社)設立のニュースなどで、いや、その前から、存在は知っていたのだけど、小室さんの音楽をまだあまりしっかりと聴いた事はありませんでした。
そのTV番組で小室さんが歌ったのは「いま生きているということ」
とても長いその歌をフルコーラス歌われたと記憶しています。
淡々と歌いはじめた、その歌。言葉のひとつひとつが、心に残り、いつの間にか目も耳も心も完全にTVにくぎ付け状態。
歌は、徐々に激しく熱を帯び、そして最後は、優しく静かに幕を閉じました。
アルバム『いま生きているということ』購入
その静かな熱唱に激しく胸を打たれた私は、ほどなく、この歌がタイトルソングとなっているアルバム『いま生きているということ』を購入。
まだLPレコードを1枚買うのが、大変だった時代に、(買いたいと思っている数々のロック名盤を差し置いて)購入に踏み切ったのは、間違いなくこの時の「いま生きているということ」のインパクトがあまりにも大きかったから。
それだけでも、充分な理由なのだけど、もうひとつ購入の意志を決定づけた理由があって、それは、この頃放送されていたTVドラマ「高原へいらっしゃい」の主題歌「お早うの朝」が収録されていたこと。
このドラマそしてこの歌が大好きだったのです。
ただこの「お早うの朝」に関しては、(購入当時)ちょっとがっかりする事もあって、それは後述。
何はともあれ、『いま生きているということ』、初めて購入した小室等のレコードです。
まずは、「いま生きているということ」と「お早うの朝」2曲をお目当てに購入したわけですが、購入時~購入後に知るあれこれもありました。
このアルバムの歌詞は全曲、詩人の谷川俊太郎の作品であること、演奏にはムーンライダーズのメンバーが全面的に参加、矢野顕子も数曲でピアノを弾いていること、など。
ただ、当時、15歳、高校1年生の私は、(なんかスゲー!とは思っていたけど)その有難みを今ほどは実感できていなかったと思います。
さて、聴いてみての感想です。
2つの「お早うの朝」
まず、お目当ての1曲「お早うの朝」
これが思っていたのと違った!
私の頭の中にある「お早うの朝」それは、下に貼り付けたYouTube動画のヴァージョン
テンポも演奏も、そして歌も、どこか軽快な高原の気持ち良さを思わせるような曲。
それがこのアルバムの「お早うの朝」は、テンポも遅く、歌も朗々とした歌い方、あまりの違いに愕然としました。どういう事!?と。
あの軽快な「お早うの朝」が心に残っていて、それが目当てで買ったという面もあるので、はじめのうちはちょっとがっかりしたわけです。
このアルバムヴァージョンも徐々に好きになりましたが、TV主題歌版シングルヴァージョンの「お早うの朝」がどうしても聴きたくて、後にシングル盤も購入しました。
そのがっかり感とも共通するのですが、このアルバム全体の音が、当時の私にはちょっと大人過ぎたような面があって、はじめのうちは、あまり馴染めなかった気がします。
退屈というほどではないのだけど、馴染むのに時間がかかった。
「いま生きているということ」を聴いて気づいたこと
そんな中、このアルバム購入の一番のお目当て「いま生きているということ」だけは、はじめからダイレクトに心に飛び込んできました。
そして何度か、この曲「いま生きているということ」を聴いているうちに気づいた事があります。
長い曲の中盤で「いまブランコが揺れていること」以後、何小節か。
「ブランコはぼくが作ったブランコ ブランコには娘がのっている」と歌われる、そこの部分が、何か、全体の文脈と違う気がしてきたのです。
歌詞カードを見ても、その部分の歌詞は記載されていない。
後に手にした谷川俊太郎の「生きる」という詩集に収載されたこの詩にも、その部分はない。
ただ歌詞カードには、全曲、作詞 谷川俊太郎としか記載されていない。
若干、疑問はあるものの、ジャケット写真のブランコこそが、その「ぼくが作ったブランコ」なのだろう、と思い至る。さらに裏ジャケットをよく見ると、ブランコ写真についての記載があり、思った通り、小室さんが娘のために作ったブランコだという事が記されていました。
という事は、あの部分は小室さんが付け加えたというか、アドリブ的に歌ってしまった歌詞なのだろう、と考えてほぼ間違いないでしょう。
この件については、その後数十年経った2017年5月に直接小室さんに確かめたところ、思った通りの答えが返ってきました。
その際、「『いま生きているということ』のアルバムに入っている「お早うの朝」が思ってたヴァージョンと違ったので、シングル盤も買いました。」という話をしたら、笑いながら「それはごめんなさい」と謝られてしまいました。いやいや、そんな~LPとシングル両方買って良かったと思っています。
「いま生きているということ」と私の生き方
で、この「いま生きているということ」が、なぜこれほどまでに心に響いたのか、という事について触れたいのですが、それは「いま」「生きている」ということ自体が、子供の頃(具体的に言うと小学2年生時のある日)から、自分自身のテーマになっていたから。
「いま」「生きている」ということは、「いつか死ぬ」ということ、それはいつだか分からない、だから「いま」が大事なのだと、思い続けて生きてきたのです。
例えば「納得できない事はやらない」他、自分自身に課したいくつかの決まりごとがあって、それは死ぬ時に後悔したくないから。子供の頃から一貫してそうやって生きてきました。
そんな生き方をしてきたからこそ、この「いま生きているということ」が実感として心に響いたという事でしょう。
歌詞の中の
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
ここで、いつも泣きそうになります。
そうやって色々なものに出会ってきたから。
芸術や観光名所じゃなくても、風にそよぐ新緑、こもれび、夕焼けなどなど、日々美しいものに出会い、その出会いに感謝しています。
そして、この後つづく
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
に深く納得し、これからも、そうやって生きていこうと思うのです。
後半の詩にも感動する部分はあるのだけど、いちばん私自身の心の琴線に触れるのはこの部分。
変わっていったアルバム全体の印象
はじめの方で書いたように、このアルバム全体の音に馴染むのに少し時間がかかったのですが、聴き込んでいくうちにかなり印象が変わっていきました。
全ての曲が、詞が、心に届くようになったのです。
はじめのうちは、なんという事のない情景を描いただけの詞だと思っていたものが、心の中で膨らんでいきました。
例えば「高原」という歌
野苺の花の上の露のひとしずく
まん中に草の生えてる道は
霧の中へ消えてゆく
この3行だけでも、美しいイメージ、情景が心に浮かぶのだけど、さらに
朝は峠をこえてやってきた
微風(そよかぜ)にほほをなぶらせ
いま ぼくは生きている
と続き、なんだかたまらない気持ちになります。
そして、ムーンライダーズのカントリー調の演奏がどこか大人びて聴こえて、15歳の私にはすぐには馴染めなかったのですが、とても心地の良い、心に沁みる音に変わっていきました。
また、年を経ると、15歳の頃、あまり有難みが分からなかった、谷川俊太郎、ムーンライダーズ、矢野顕子の存在も自分の中でどんどん大きくなっていき、それに伴い、さらにこのアルバムの存在も大きくなっていくのでした。
このアルバムを買ってから、約50年。ほぼ半世紀!?
その間、毎年必ず針を落とす特別なレコードであり続けています。
きっとこれからも。