私を形成しているもの
今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。
1984
※この文章は、2020年に他SNSに投稿したものを加筆修正して掲載しています
※チケット半券画像は自分の物
1984年 鈴鹿8時間耐久オートバイレース
後にも先にも鈴鹿まで出かけて8耐を観たのは、この年だけ。
なんせお金がかかりますから・・・
友人の車で出かけました。
それ以外の何年かは、青山にあるホンダのショールームや多摩テックで(パブリックビューイング的な物を)観ていました。
では、なぜ、この年だけは、鈴鹿まで行こうと思ったのか!?
それは、コーク・バリントンが出場したから。
では、コーク・バリントンとは?
ちょっと長いけどWikiから抜粋引用します。
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南アフリカ(生れはローデシア)の元オートバイレーサー。ロードレース世界選手権で通算4度の世界チャンピオンに輝いたライダーである。
数年間のスポット参戦ながらヤマハの2気筒マシンで勝利を挙げるなどの活躍を見せていたバリントンに目を付けたカワサキは、彼をファクトリーチームに迎え入れた。ファクトリーライダーとしてフル参戦を開始したバリントンは、カワサキの期待に応えて1978年と1979年、激戦区である250ccと350ccの両クラスで2年連続ダブルタイトルを獲得した。
1980年、ケン・鈴木率いるカワサキとバリントンはモノコックフレームという当時としては革新的な構成を持つニューマシン、KR500で最高峰クラスへの挑戦を開始する。しかしバリントンの力をもってしても、ニューマシンを開発しながらレースを戦うには500ccクラスの壁は厚く、250ccクラスや350ccクラスでの成功を再現することはできなかった。
結局、3年間に渡る500ccクラス挑戦で勝利を挙げることはできず、カワサキは1982年を最後にKR500の開発を取り止めると同時に世界選手権からの撤退を決定。カワサキがバリントンに撤退ぎりぎりまで伝えなかったためそのときには他チームの翌年陣容が決定済みでバリントンは他チームのシートを得られずグランプリから引退した。
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2年連続、250と350の2クラスで、世界チャンピオンですよ!カワサキで。
そしてKR500!
当時としては革新的な構成を持つニューマシンKR500!
結果は残せなかったけどKR500
プラモデル作りました!
何か特別なチャレンジをする物が好きなんです。(例:楕円ピストンしかも4ストのNR500とか)
バイクに限らず他の分野でも。
しかし、コーク・バリントンの事は、雑誌の中でしか知りませんでした。
でも、その経歴と、インタビューなどで知る人柄に勝手に惚れ込んでいました。
当時の私は(バリントンと同じ)Nolanのヘルメットにカワサキのバイク。
そんな、私にとって特別な男が、8耐出場!しかもカワサキのバイクで!!
プロレスで言えば「まだ見ぬ強豪」
この目で見ないわけにはいきません。
ただ、カワサキのバイクと言っても、カワサキは8耐にはワークス(メーカーが直接運営するチーム)参戦していません。
月木(ツキギ)レーシングという(カワサキ車用のマフラーなどを作っている)コンストラクターチームからの参戦。
この時のコーク・バリントンの雑誌インタビューを読むと、カワサキに対する恨み言(GP撤退~引退の顛末)など一切なく、むしろカワサキのバイクでレースが出来る事を本当に楽しみにしている様子で、それだけでも涙が出ました。
さてレース。
前日までに行われた予選の結果は、コーク・バリントンをもってしても、ワークス参戦しているHONDAやSUZUKIには力及ばず、それでも12位と大健闘。
決勝レース、主にコーク・バリントンを(目で)追い続ける私。
お!・・・・・・・・・・・・・・・・お!・・・・・・・・・・・・・・・
と何度か私の前を一瞬で通り過ぎるコーク・バリントンの姿を確認し、小さく心の中で歓声をあげる。
しかし、ほどなくその姿は見えなくなった。
場内アナウンスでリタイアした事を知る。
今、リザルトを確認したら15周でのリタイア。
そこからの長い7時間ほどの事はほとんどおぼえていません(笑)
そんな1984年の夏でした。