日: 2024年4月9日

車浮代『気散じ北斎』読了

読了と書いたけど、実は随分前に読み終わっていました。
この本を読み始めて50ページほど読んですぐに、ちょっとした感想を書いています。
あれは、2月の半ばだったか(車浮代『気散じ北斎』参照)

それからほどなく読み終わっているのだけれど、もしかしたら作者の車さんも読むかも知れない感想を、生半可な気持ちじゃ書けないな、と思っているうちに、どんどんと時は過ぎ今日に至る。

車浮代著『気散じ北斎』実業之日本社刊

50ページ時点でのワクワク感は、(車浮代『気散じ北斎』に)すでに書いた通りで、そのワクワク感のままに読み進みあっという間に読み終わりました。

と言っても、中盤から後半にかけて、読み進むうちに、ひとつだけ心に引っかかる事があったのも事実。

エロティックな描写の見事さや、絵の技法や心に対する北斎の言葉にも感心しきりで、言葉のやりとりを読んでいると、実際にその場面が見えてくるような感覚すら覚えました。
そうやって読み進むうちに、残りページ数が少なくなるにつれて、面白さとは裏腹に、心に引っかかる事がどんどん大きくなっていったのです。

それは、このまま終わってしまったら、ふつうに北斎の人生をなぞって脚色した興味深く面白いお話。で終わってしまうのでは?という考え。
もっと具体的に何が引っかかっていたのかというと、お栄が北斎の実子ではないという、この話ならではの設定は、あまり意味ないものになってしまう、という思いがチラチラと心に浮かぶのです。
と同時に「そんなはずはない!そこが話の胆なのだから。」という思いの方が大きいのではありますが、何せ残りページはどんどん少なくなっていく。もはやワクワク感はハラハラ感に変わっています。

しかし!

そんな浅はかな心の引っかかりなど吹き飛ばしてくれる見事な展開がございました。
正直、変な声が出ました。「ふはっ!」的な感じで。
変な声の後に、少ししてから涙も出ました。
やられた~・・・という清々しい敗北感(?)と同時にしばし放心。

さらに少ししてから「お見事!」という喝さいが心に浮かびます。
これはすごい話だな。
話を思いつくのもすごいし、読み手をこんな気持ちにさせる話の紡ぎ方、構成力にも脱帽。

良き読書体験でした。


と、ここまでが感想文。
ここからは、個人的な話。

昨日は、たまたま良い気候だったので、散歩がてら花見をしてきたのだけど、今日は雨。
この感想文を書くにあたって『気散じ北斎』の後半部分をパラパラと読み返していました。
(「晴耕雨読」ですな、全然耕してないけど)

北斎が晩年を過ごした小布施あたりは若干土地勘があり、岩松院の八方睨み鳳凰図も見た事があります。なので、そういった点でもとてもリアルな感覚として楽しめたのですが、初めに読んだ時にひとつ勘違いしていた所を見つけました。

それは物語の中で重要な場所になる仙ヶ滝の事。
「滝の奥の洞窟に入って裏見ができる」という描写から、私は、小布施にほど近い山田温泉の近くにある「雷滝」を思い出していました。何度か行った事があるのですが、その滝も同じように滝の裏側に入る事が出来るのです。その時は、読み進みたい気持ちが強かったのか、名前の違いに関して「違う呼称もあるのかな」程度に考えて、その滝の光景を思い浮かべていました。

しかし、今回、しっかり読んでみると「松井田宿から中山道を外れた先に」って書いてあるので、小布施近くどころか、まだ群馬。私の気持ちは一足先に小布施周辺にいってしまったようで、しっかり読めていなかった。
って事は「安中あたりに滝の裏側に行けるところあったな」と、そこもまた行った事がある場所でした。分かります、仙ヶ滝。
同じ裏見が出来る滝でも、随分と景色が違う。
今回はしっかりと(物語的に)本物の景色を思い浮かべて読み直す事が出来て、それはそれで面白い心の中の経験。

近いうちに、仙ヶ滝に立ち寄りつつ、小布施への小旅行をしてみたくなった。
『気散じ北斎』聖地巡礼。
美術館などで葛飾北斎、葛飾応為(お栄)の絵を観る時にも、これまでとは違った気持ちで観る事が出来そうだし、この先も、色々な形で楽しませてもらえそうです。