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『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』読了

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』
岩波書店 2022年刊

小澤征爾が、昔ばなし研究者の兄・小澤俊夫、エッセイストでタレントの弟・小澤幹雄の3人で語り合った、家族のこと音楽の事、そのほか様々な興味深い話が収載されている。

小澤征爾に関しては、このブログのコンテンツ「私を形成しているもの」の中で小澤征爾『ボクの音楽武者修行』を取り上げています。
その本を読んで以後、人間・小澤征爾のファンになり、もちろん音楽家・小澤征爾も大好きになりました。

とはいえどっぷりと深みにはまっていたわけではないので、小澤征爾関連の本は10冊前後、レコードとCDも合わせて20枚程度しか持っていません。
その程度のゆるいファンではありますが、それなりに深く心を寄せています。


この本は、地元の図書館で借りたもの。

内容的には、主に小澤征爾の活動を追って話をするような形になっている。
これまで、色々な本で読んだ事や、インタビュー、雑誌記事、などで断片的に知っていた事が、実際にはどういう事だったのか、どんな気持ちだったのか、本人や事情を知る兄弟の口から語られる内容は、何か点と点がつながって線になるような面白さで、あっという間に読み終えてしまった。

エピソードとして面白かったのは、山本直純の事(あれほどの才能を持っているのに、その才能をちゃんと使わなかったやつはいない的な話)や、アルゲリッチとのほのぼのエピソード、ロストロポービッチのぶっ飛んだエピソード、カラヤンに師事しながら、バーンスタインのアシスタントになった時の裏話。などなど。

そして、『ボクの音楽武者修行』で重要な役割を果たしたスクーターのその後。
この話はちょっと切なかった。征爾が今(この対談当時)でも、あのスクーターを愛していて、手元に置いておきたかったという事が分かり、胸がキューとなった。

父親の話もものすごく興味深かった。

そして、この本は、今後も何かと読み返したくなる本だと感じた。
(ので、そのうち購入します)


ちなみに今、手元にある小澤征爾関連本は、どれも何度となくページを繰っている本ばかり。
『ボクの音楽武者修行』については、既に書いたので、それ以外で傾向別に3冊ほど紹介いたします。


ガイド本としてとても役にたった一冊

ONTOMO MOOK『小澤征爾NOW』
音楽之友社 1994年刊

NOWと言っても、1994年当時のNOWなので、30年前。
この頃、仕事でイタリアと日本を行き来している時期で、イタリアにいる時は何度となくクラシックの音楽会に足を運び、CDも色々と買い集めていたので、ガイド本として本当に役に立った。
実相寺昭雄が寄稿していたりと読み物としても面白い物が多く、何度も読み返している。


上質なドキュメンタリー映画のような一冊

『小澤征爾 サイトウ・キネン・オーケストラ欧州を行く』
一志治夫・著/ND SHOW・写真
小学館 2004年刊

この本も『ボクの音楽武者修行』同様に、随分持ち歩いて、色々な所で読んでいたので、表装はけっこうくたびれている。
2004年5月、2週間にわたって行われた、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラのヨーロッパ・ツアーを美しい写真と文章で追った、フォト・ドキュメンタリー本。
所々胸が熱くなる瞬間があり、ときめきに近い何かを感じる。ヨーロッパへの思いも掻き立てられる。
私にとってちょっと特別な一冊。


どこから読んでも楽しめる一冊


『小澤征爾さんと、音楽について話をする』小澤征爾、村上春樹
新潮社 2011年刊

これはもうタイトルどおりの内容。
割と最近(と言っても12年前)の対談本。
内容としても面白いし、引き出される言葉も面白い。
そして、読んでいてすごく納得感を得られる。
パラパラと適当にページを繰り、その時の気分で読み進める、そんな付き合い方をしている本。



小澤征爾関連の書物は、どれも、何度も読み返したくなるものばかり、という結論。

『小澤征爾、兄弟と語る~音楽、人間、ほんとうのこと』読了
2024年7月20日、読了

マルコ・バルツァーノ『この村にとどまる』読了

『この村にとどまる』Resto Qui

マルコ・バルツァーノ Marco Balzano
関口英子 訳

近所の図書館にて、イタリア文学の棚からふと手に取ったこの本。
美しい表紙とタイトルに惹かれて読んでみる事に。

今朝、読了。
感想以前に強く思ったのは、この本は手元に欲しい、という事。
この作者の本をもっと読みたいという事。
この訳者の本ももっと読みたいという事。

作者のマルコ・バルツァーノの事は、この本ではじめて知りました。他にも何冊かの著作があるようです。ただ、日本語に翻訳されている小説は、これだけ(かな?)。
マルコ・バルツァーノという名前はしっかりと心にとどめたので、いつか他の著作も読める事を願います。

訳者の関口英子さんは、以前、白崎容子先生との共著(編訳)『名作短編で学ぶイタリア語』は読んだことがあって、何よりイタリア文学コーナーで、その名前はよく目にしていたし、第1回須賀敦子翻訳賞の受賞者という事も知っていたのだけど、小説の翻訳本を読むのははじめて。すごく読みやすく伝わりやすい翻訳で、はじめから日本語で書かれた小説を読んでいるような感覚で読み進む事が出来ました。


この本を読んで一番強く感じたのは、当たり前の事ながら歴史の中のひとつひとつの出来事には物語があるという事。

これは、これまでに色々な場所で感じ続けてきた事。
色々な場所で、そこで起きた出来事に思いを馳せてきた。

身近な場所で言えば、能仁寺であったり、花魁淵であったり、小河内ダムであったり。
また旅先の様々な場所で。そこで起きた事に関わる一人一人に物語がある事は感じていた。

この本で語られているのは、歴史に翻弄され蹂躙され続けた国境近くの村に住む、一人の女性トリーナの物語。

北イタリアにあるドイツ語圏の村(クロン村)、そこにある日突然ムッソリーニに送り込まれたファシストがやってくる。ドイツ語は禁止されイタリア語を強要される。イタリア語の教師や役人が送り込まれ強制的にイタリア化されていく。

ウクライナやジョージアで起きた事、起きている事が、こういうストーリーなのだと、生々しく考えさせられる。他国に限った事ではなく、日本も台湾や韓国他多くの国々、沖縄や北海道で同じように、言葉を奪い、同化政策を行ってきた。
事実として知ってはいるのだけど、その行為がどういう事なのか、それがどういう感情を持って受け止められたのか、トリーナの(そしてこの村の人々の)身に起きた出来事を通して深く実感させられた。
しかし、未だにこのような侵略行為が行われている事に愕然とし、絶望に近い気持ちになる。

戦争がはじまると、イタリアのファシスト、ドイツのナチスそれぞれの政策によって村は分断される。
村どころかトリーナの家族すら分断される、村の将来に悲観的な娘は、半ば失踪するように親戚と共に姿を消し、息子はナチスの志願兵に、夫エーリヒはイタリアに徴兵され一度は戦地に出るも負傷して帰宅、傷が癒えた後、軍に復帰せず、トリーナと共に山奥へと逃亡を図る。

そこで起きた出来事の生々しさ、戦争中に徴兵逃れをする事、脱走兵になる事とは、こういう事なのだ。これもまた、日本軍の徴兵逃れをして山中に潜んだ人の話、脱走兵の話などと重ね合わせて、ぞっとするような感覚を味わった。そして今、戦争が起きたら私はどう行動するのだろうか(もしくは戦争が起きないようにどう行動するのか)という事まで考えてしまった。決して絵空事ではない。

戦後、どうにか生き残って村に戻ったトリーナと夫エーリヒに今度は、ダム建設の問題がのしかかる。
村はダム湖の中に沈むかも知れない。そんな事などおかまいなしに工事は進む。
ダム建設反対に立ち上がるエーリヒ。そこで無関心な村人たちとの心の分断を経験する。

そして、これも、日本でも各地にあるダムに沈んだ街や、原発建設や諫早湾干拓によって起きた住民の分断などに心を馳せる。一人一人に物語があるのだ。

そうやって様々な事に思いを馳せながら読み進んだこの本。
それは、この本で語られている出来事の生々しさが、そうさせるのだろう。
とはいえ、そこで起きた出来事が生々しいのであって、語られる話の筆致が生々しいわけではない。
むしろすっと心に入ってくるような語り口なのだ。

この物語はフィクションなのだけど、とても深く取材した上で紡ぎ出された物語。
トリーナという人物が実際に体験したかのように書かれたものすごくリアルな話なのだが、そうではないのだ。
きっと色々な人の口から語られた体験を寄りあわせ、そこから取り出された話の糸を、それこそ紡ぐようにして、丁寧に誠実に創られた話なのだろう。そしてその根底には愛がある。

表紙の幻想的な写真、湖に沈む教会。
私は知らなかったのだけど、実際にあるそうです。

下の写真は、この村に起きた出来事を知ってか知らずか氷上で楽しむ人々。(Googleマップより)
もしこの先、私がここへ行くことがあったのならば、教会の前でしばし涙するかも知れない。

余談ですが、この話の中で、トリーナの母が戦禍を逃れるために(というか誰も世話してくれる人がいなくなるので)親戚の住む村へと避難する。
その村の名前はソンドリオ。

私、その村へは何度も行っています。
30年ほど前、30歳ぐらいの頃、イタリアのスキー場で派手に骨折して、スイスとの国境の街ティラノにある病院に入院していた事があって、その時、同室だったおじさん(アルトゥーロ)がソンドリオの人。アルトゥーロの一家と仲良くなって、何度か家に泊めてもらったり。
また入院中に仲良くなったドットーレ(お医者さん)もソンドリオの人で、ドットーレの家にも何度か遊びに行っています。

(2012年1月、ソンドリオにて朝のお散歩中、半分寝てます)

ほんの小さなエピソードだけど、馴染みのある村の名前が出てきて、高まり、さらに物語に没入出来ました、というお話でした。

「この村にとどまる」
2024年6月20日、読了

小澤征爾『ボクの音楽武者修行』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1976

小澤征爾著 「ボクの音楽武者修行」(新潮文庫 昭和57年初版)

※画像は自分の蔵書(ボロボロ)

今や伝説的な指揮者小澤征爾が、まだ駆け出しの指揮者だった時分に著した、若き日のヨーロッパ武者修行旅などのエッセイ。

この本は、何度も読みました。
大好きな本です。
はじめに読んだのは、高校生の頃、図書館で借りて。
後に文庫本で購入し、それからはふだんの電車移動中や入院中、海外に行く時などにもよく持ち歩いていました。


こんな事ってあるの!?というぐらいすごい話の連続。
しかも本当にあったすごい話。

小澤征爾が若い頃、ヨーロッパへと旅立ちます。
富士重工製の125ccスクーターと共に船で。

ほとんどノープランで出かけ、マルセイユからパリまでのスクーター旅、背中にはギターを背負って。

パリでたまたま知った指揮コンクール(ブザンソン国際指揮者コンクール)に出場。
そして優勝!

そこからは、あれよあれよと、シャルル・ミュンシュやバーンスタインとも邂逅。
さらにはカラヤンの弟子に!

語られるエピソード全てがあまりにもぶっ飛びすぎていて、ものすごく面白い。
しかも、ものすごい話なのに自慢話のような感触は全く感じられず、サラっと面白く読ませてくれるのは、人柄なのでしょう。

とにかく読後感が爽やか。

ずーっと後に、小澤征良(小澤征爾の娘)のエッセイ「おわらない夏」を読んだ時にも、全く同じような爽やかな気持ちになりました。

私は、人と自分を比べて、羨んだり妬んだりしない性質なのですが、これには、こんな環境に生まれたら面白かっただろうなぁ~と軽い憧憬のような気持ちは覚えました。

でも、いくら環境が整っていたとしても、これが出来たのは紛れも無く「小澤征爾」だったからこそ。

※コロナ禍巣籠り中に他SNSに投稿した物を編集、転載したものです

五味康祐 『西方の音』

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


1986

五味康祐 『西方の音』(1969年 新潮社)

※画像はネット上から拝借

中学生の頃、オーディオに興味を持ち、その後も、常に気になりつづけているオーディオの世界。
そしてオーディオへの興味から読んだのがこの本。
五味康祐 『西方の音』

いつ読んだのか正確な所は思い出せないのだけど、まあ25歳ぐらい1986年という事にしておきましょう。

古本で単行本を購入(箱入りのハードカヴァー版)、今は手元にないのでおぼろげな記憶に頼るしかないのだけど、かなり毒舌でベートーヴェンのピアノ協奏曲をこきおろしたりしている。
しかし、それは音楽に対する愛ゆえの毒舌。
だから、まったく嫌な気持ちにはならない。

一番、印象に残っているのは、タンノイのスピーカー、オートグラフを日本で初めて購入(個人で輸入)した話。

船便で届いたそれを見た時の大きな喜び、わくわくしながら音を出し、はじめて出た音に愕然とがっかり、しかし配線を間違えた事に気づき、ちゃんと出た音を聴いた時の喜び。
(これ記憶だけで書いているので、こういう表現じゃないし、間違えがあるかも知れません)

その大きな感情の浮き沈みに、こちらまでドキドキしながら読んだ事を鮮やかに憶えています。

そして、もうひとつ印象に残っているのは、娘さんがベーゼンドルファーのピアノを弾いていたという話。
ベーゼンドルファーというオーストリアのピアノメーカーの事は、この本を読んで初めて知り、それ以来とても気になっていました。

ある日、宮沢明子さんのモーツァルト・ピアノ・ソナタ集をCD屋さんで手にした時に、ベーゼンドルファーのピアノを使っているという事が(1つのセールスポイントとして)帯に書いてありました。

そこに興味を抱いて購入。
後に知ったのですが宮沢明子さんは有名なベーゼンドルファー使い。

さらにこの録音を担当したのが菅野沖彦氏。

オーディオ評論家としての菅野沖彦は、良く知っていたのですが、レコーディングエンジニアとしての菅野沖彦に触れるのはこれが初めて。

そのCDは愛聴盤になりましたが、その事に関しては、また別の話として。

オーディオへの興味から「西方の音」を読む→ベーゼンドルファーのピアノを知る→ベーゼンドルファーに関心を持ち、そのピアノを弾く宮沢明子のCDを購入→そのCDのエンジニアは菅野沖彦→菅野沖彦はオーディオ評論家としてかねてから良く知る存在

という感じで、オーディオを起点として、また旧知のオーディオの世界へ戻る、そんな面白い展開をもたらしてくれた本でもあります。

※コロナ禍巣籠り中に他SNSに投稿した物を編集、転載したものです

『半島を出よ』村上龍

私を形成しているもの

今の自分を形成する一部になっていると言えるほど印象に残る様々なものを「私を形成しているもの」としてとりあげていきます。他のSNSなどに投稿したものを加筆修正して再掲載しているものもあります。
※この下に書かれた年号は作品の発表年ではなく私がその作品に初めて触れた(と思われる)年。またはそのイベント、出来事を経験した年。
※ただの思い出話です。


2005

『半島を出よ』村上龍 2005年 幻冬舎

※画像は私の蔵書

本の話。
これまで主に10代の頃までに読んだ本の事を書いてきたけど、時代は一気に2000年代。
私、40代になっています。

とりあげるのは、『半島を出よ』村上龍。

村上龍の長編小説は、ほとんど読んでいるのですが、その中でも、これはかなり好き!

村上龍(の著作)との出合いは、高校生の頃。
1976年、デビュー作の『限りなく透明に近いブルー』が、芥川賞をとり話題になっていましたが、少しブームが落ち着いた頃に読みました。

高校3年生ぐらいの頃かな?
読後感は、ちょっとどんより。

馴染みのある場所(福生)が舞台という事もあり、とても読みやすかったのですが、内容的には、正直あまり好きではありませんでした。
「セックス、ドラッグ、ロックンロール」的な世界が苦手(というかちょっと嫌い)なのかも知れません。

どちらかというと私「音楽、文学、寺社仏閣」的な世界が好きなのです。
あ!!今、これ適当に書いたんだけど、偶然韻を踏んでますね!

ドラッグどころか、タバコも咥えた事すらない(というか大嫌いだ)し、お酒もあまり飲まないからなぁ・・・
乱痴気騒ぎも興味なし。というよりも嫌い。
あと落ちていく感じが苦手なのかも。
変な上昇志向はもっと苦手だけど。

でも、なぜかその後も気になって、ずーっと読み続けています。
村上龍。

『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』は、2、3回読んだかな。

『5分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス』は、今手元にないんだけど、あれば、(コロナ禍の)このタイミングで読み返してみたい。

『69』は、それまでの村上龍作品的な空気感と違って、さわやかな読後感。笑いながら読みました。そしてラストに納得の一言。

そんな風に10代の頃から、村上龍作品と付き合いつづけてきました。
という事で、本題。

『半島を出よ』

簡単に言っちゃうと、北朝鮮の特殊部隊が福岡ドームを占拠!どうしましょう!?って話。(簡単すぎ?)

これが実にリアルで、緊迫感あり、北朝鮮の特殊部隊、日本政府、自衛隊など、様々な視点から書かれているので、常に様々な角度からこちらの思考を促してくる。

スリリングで面白い。
ぐいぐいと引き込まれるように一気に読了。

筆力!!

これ実際に起こっても不思議じゃない。

北朝鮮の物らしき船が日本に漂着しているニュースをたまに見るけど、その度に、この『半島を出よ』を思い出してしまいます。

今思ったけど、このリアル感は『シン・ゴジラ』にもつながりますね。


(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

「隠された十字架 – 法隆寺論」 梅原 猛 著(新潮文庫)

私を形成しているもの

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※ただの思い出話です。


1981

※画像はネット上から拝借

この分厚い文庫本が本屋さんの平台に積まれているのを見た瞬間、飛びつくように手に入れました。

子供の頃から、奈良大好き、法隆寺大好き、夢殿大好き、聖徳太子大好きでした。
そして「日出処の天子」大好きなので。
(調度この文庫本が出た時「日出処の天子」連載中)

固い本版の『隠された十字架』は、中学生の頃から何度か本屋さんで手にとり立ち読みしていたので、文庫版が出たのが本当に嬉しかった。
目次を追うだけでそそられます。

小学生の頃、お城やお寺のプラモデルを作る事にはまっていた時期があるのですが、同じ趣味を持つ同級生の家には夢殿のプラモデルがありました。
その美しい八角形のお堂、夢殿というロマンチックな名前に魅了されました。

子供の頃、その夢殿は、聖徳太子の書斎的な場所だと思っていました。
確か「日出処の天子」でも、夢殿にこもる場面があったような・・・(今、手元にないので確認出来ず)

しかし、この本によると、聖徳太子の死後、太子の怨念を鎮めるために建てられた、という説。

他にも意外な説が次々と展開され、若干興奮気味に一気に読み終えた(と言っても分厚い本なので数日かかりました)のですが、今は、あまり憶えてないかも・・・この手の本は、手元に置いてたまにパラパラと目を通したいですね。

いつかまた手に入れよう。

そんな中でも、特に記憶にあるのは、秘仏とされ数百年の間、人目に触れる事なく閉ざされていた救世観音を、アメリカ人東洋美術史家フェノロサが強引に開けさせる場面。

その話はなんとなく知っていたのですが、フェノロサの、仏罰を全く恐れずに、強引に開けさせた態度に若干憤慨しながら読みました。
「罰あたればいいのに!」と。

救世観音といえば、ちょっと本の話からはズレますが、約20年ほど前、1人バイクで天川へ行く途中、法隆寺へ寄りました。

朝早く着き、開門と同時に中に入ったのですが、夢殿の前に行くと、なんと普段は拝む事の出来ない救世観音がその時偶然にも開帳中!!

狂喜しながら、しばし救世観音の前に佇み、救世観音と対峙し濃密な時間を過ごす私。

そこに修学旅行の集団。
バスガイドさんがよく通るハッキリとした声で救世観音の説明をしている。
フェノロサが強引に開けさせた話もしている。

そうそう、救世観音、今日は開帳中、まさにここにいらっしゃるのですよ。

するとガイドさん
「その救世観音ですが、秘仏ですので、現在も観る事は出来ません(キッパリ)」
と言い、救世観音と対面中の私の後ろをすたすたと通り過ぎてしまいました。

「え~~~~~~~!!!!」

せっかく開帳期間中に来たのに、なんと!!
かわいそうな学生達、そして情報知らずのガイドさん。
いつもは開いてないかも知れないけど、そんなぁ~
ルーティンどおりに行動しちゃダメでしょ!

今思えば、追いかけて行って教えてあげれば良かったのかなぁ(人見知りなので無理)
というお話でした。(事実です)


※最近は救世観音けっこうな頻度で観られるみたいですね。WEBサイトには「春秋の特別な期間だけ開扉されます。」とありました。


(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

「不思議の国のアリス」

私を形成しているもの

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※ただの思い出話です。


1980

今回取り上げるのは、東京図書から刊行された「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」の2冊。

※画像はネット上から拝借

「不思議の国のアリス」石川澄子訳
「鏡の国のアリス」高山宏訳
ルイス・キャロル著、マーチン・ガードナー注
(1980年 東京図書)

この2冊のアリス本は、1980年に刊行された時に、即買い。
当時、書店でアルバイトをしていたので、アリス関連の本はその時に随分と揃えました。

その時、買った中に「不思議の国のキャロル」という大判のハードカバー写真本があり、これは、ルイス・キャロルが撮影した少女写真集みたいな本で、これも取り上げようとネット検索したのですが、全くヒットしませんでした。
(※記憶に間違いがありました。本当のタイトルは「キャロル・イン・ワンダーランド」ふつうに検索出来ました。勝手に訳してしまった。)

あとは「ルイス・キャロル詩集」「スナーク狩り」他、色々と買ってたな。
物心ついた頃から、不思議な物、ナンセンスな物、異形の物に魅かれ続けているのです。
(自分でやっていたバンド名も不思議なバレッツに不思議軍)
アリス好きもその流れからかな。
あと、テニエルの挿絵にも強く魅かれています。

さて、この2冊、とても特徴的な事は、ものすごくたくさんの注釈がついている事。
これが実に面白かった。
ジョーク的な物って、出典が分からないと「なんのこっちゃ?」ってなってしまうのですが、そういう所全部こと細かに解説してくれています。
注をつけているマーチン・ガードナーという方は、数学者という事で、数学者的な凝ったイタズラ的解説なんかも盛り込まれています。
(そういえば高校生の頃「四次元の国のアリス」という数学的物理学的文庫本も読みました)

また、この本、装丁が実にシャレているのです。
ソフトカバーで、紙質、インクの色などとても好きでした。
軽くて持ち運びしやすいので、当時よくバッグの中に入れて持ち歩き、電車の中、公園、喫茶店などでパラパラと開いては、楽しんでいました。どこから読んでも面白いので。

ところで、この本と出合ったのは、もう40年以上も前?
ちょっと信じられません。

(他SNSに投稿したものを若干修正しての再掲です)

小松左京『さらば幽霊』

私を形成しているもの

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※ただの思い出話です。


1974

私にとって、初めての小松左京がこれ。

『さらば幽霊』小松左京自選短編集 (講談社文庫)


『さらば幽霊』小松左京自選短編集 (講談社文庫)

子供時代、毎年夏休みの数日間は伊豆で過ごしていた。
幼児期から小学校低学年の頃は熱海のホテルで。
徐々にディープになり、小学5年生からの数年間は、叔父一家と一緒に西伊豆雲見の民宿で。

伊豆に行く前には、何冊かの本を買い、持って行くのが恒例で、きっとこの文庫本『さらば幽霊』は最後の旅の友。
たぶん中学1、2年生の時。

本を買う時に、小松左京と言う名前は意識していなかったかも知れない。
なんとなく面白そう、それだけの理由で買った気がする。
表紙の絵(和田誠画)もかわいらしくて、読みやすそうな気がしたのだ。
表紙の印象から、ちょっとユーモアのある怖い話程度に考えていたのだが、いやいや、かなり怖かった。

「くだんのはは」も入っていたかな?
今、本が手元にないので、ネットで検索してみたのだが・・・

その後、小松左京は何冊も読んだので、記憶が混ざってしまったようです。この本には「くだんのはは」は、入っていなかった。

てっきりこれに収載されていると勘違いしていました。

これに入っているのは、

  • さとるの化物
  • 霧が晴れた時
  • 花のこころ
  • 安置所の碁打ち
  • ムカシむかし……
  • 比丘尼の死
  • 忘れられた土地
  • 保護鳥
  • さらば幽霊
  • 海の視線

パッと内容が浮かぶものもあれば、全然思い出せない物もある。
「霧が晴れた時」本当に怖い、一時期こんな事ばっかり考えてたなぁ・・・
永井豪の短編「ススムちゃん大ショック」的な怖さ(分かる人だけ分かって)

内容はあまり憶えていないのに、この本を読んだ時の心模様と同時に心に焼き付けられた西伊豆雲見の風景は妙に鮮やかだ。


すると、私が「くだんのはは」を読んだのは一体全体どの本でしょう?

と、ちょっと調べてみたら、新潮文庫の『戦争はなかった』でした。
これも中学か高校生ぐらいの時に読んだような気がするけど、怖かったなぁ

ちなみにこんなラインナップ

  • 影が重なる時
  • 四次元ラッキョウ
  • 青ひげと鬼
  • 釈迦の掌
  • 生きている穴
  • 完全犯罪
  • 木静かならんと欲すれど……
  • 失業保険
  • 運命劇場
  • 戦争はなかった
  • くだんのはは
  • 四月の十四日間

「影が重なる時」も、とても怖くて大好きな話。

「戦争はなかった」は、ある日突然自分以外の人から戦争の記憶が全て消えている、という話で、今こそ読むべき話かも。

手塚治虫にも(大名作「カノン」はじめ)戦争の影を感じる作品が多いけど、戦争を体験した世代ならではの重み凄みを感じる。


手塚治虫や小松左京、こういう作品を読んで育った者としては、私達が戦争に加担するような事は、絶対にあってはいけないと思うのです。

自民党の方々は、少年時代に、一体どんな書物や映画に触れて育ったのだろうか?

筒井康隆「遠い座敷」

私を形成しているもの

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※ただの思い出話です。


1981

今回は、筒井康隆の短編を1つだけ取り上げます。
筒井作品との出会いは、中学生の時。
忘れもしない飯能銀座通りの、今はなき流星堂書店で角川文庫版の「幻想の未来」を衝動買い。
以後、筒井康隆全集刊行まで、いや、断筆宣言前までは、本になった物は全部読んできたはず。
断筆からの復帰後、以前ほどの情熱で追いかける事はなくなったけど、それでも、そこそこ読んできました。

なので、「私を形成する」筒井康隆作品は、色々とあげたくなるのですが、ある分野、ある種恐怖心に近いような心の中の変な部分をくすぐられた特別な作品としてひとつ。


それは「遠い座敷」
短編集『エロチック街道』に収載された作品。

『エロチック街道』筒井康隆
『エロチック街道』筒井康隆

1981年発売、その時私は、20歳。
この頃には、文庫化されていた筒井作品は全て読み終えてしまい、ハードカバーの単行本を発売と同時に買うようになっていました。

これも発売と同時に購入。
この本には、有名な「ジャズ大名」他、種々雑多な作品が収載されていて、どの一編についても語りたい事があるのですが、この「遠い座敷」の読後感(というよりも読中感)は、後にも先にも感じた事の無いほど、特別なものでした。

という事で「遠い座敷」です。

内容に関しては、まだ読んでいない人のために、あまり触れたくはないのですが、まあ、とにかく子供の心の奥深く存在する恐怖心をくすぐりまくるような(読んだ時は大人になっていましたが)そんな作品なのです。

日本の土着的な風習であるとか、家族の中だけにある秘密的な何かだとか、からの、昔ながらの日本家屋、そこに置かれている物などに感じる恐怖感。
そんな物たちがありえないシチュエーションの中で次々に襲いかかってきます。
いや別に襲いかかってこないのだけど、心の中にどんどん大きく広がっていく感じかな?


みなさん、例えば、古くて大きな温泉旅館、変な増築を繰り返して迷路のようになってしまった旅館の廊下、そんな物にそそられる感覚ってありませんか?
ちょっと怖いけど、あちこち探検したくなる感じ。

私にとっては、父の実家がそんな存在でした。
山手線某駅前にある酒屋で、現在は6階建てのビルになっているのですが子供時代は、木造二階建て地下一階で横に広く、迷路的と言うには大袈裟ですが、通り抜けできる所と出来ない所などあり、ひとりであちこちの部屋を回って遊んでいると、時折とても心細くなり、怖くなる事がありました。
仏間に置いてある写真や置物に恐怖を覚えたり。地下の倉庫に降りていく暗い階段にゾクゾクしたり。
今でも時折夢に出てきます。

(ネット上に当時のその建物の写真があったので勝手に拝借しました。ごめんなさい。)

そんな原体験があって「遠い座敷」に感じる恐怖心が増幅されたのかも知れませんが、このような子供時代の恐怖感覚は、誰にでも多かれ少なかれ残ってはいないでしょうか?


その感覚が、この「遠い座敷」を読んでいると、ぐいぐいぐいぐいと引っぱり出されて来るのです。
その感覚は、ページを繰る度に、大きくなり、ついには「ひっ!」「うはっ!」と声が出るようになります。
読み進めると、さらに怖さは加速して、ついには「ひゃひゃひゃひゃひゃ!」などと(怖すぎて)笑いながらのたうち回っていました。
大袈裟に聞こえるかも知れませんが、実際に、狭い部屋のベッドの上で、この本を読みながら笑いのたうち回った時の感覚は今でも妙に体感として残っているのです。


まあ、誰もがそんな状態になるとは思いません。
私の場合、たまたま、実家体験と重なって恐怖感が数割り増しになったのかも知れません。
ただ、この本を読んだ後、やはり読み終えたばかりの友人との会話。


(どちらかが)「あれ怖くなかった?」
(二人同時に)「遠い座敷!!」
(二人同時に)「ひゃは~!!!」


そんな事もありましたので、ある程度共通した感覚があるものと思われます。


※画像はネット上から拝借

2022まとめ(どるたんのInput編その1)

まずはじめに、私、ぼーっと空を見たり、山を見たり、雲を見たり、そういう時間が大好きで、と同時に色々な事を考えていて、たぶんそれが、私にとって一番大きなインプット。

それはそれとして、インプット編。

というと、読書、音楽鑑賞、映画鑑賞、コンサート、スポーツ観戦、美術展、TVやラジオ、観光などなど、というところでしょうか。

このうち映画については、後日何かしらまとめる予定なので、置いておいて。

とりあえず

スポーツ観戦

正直、最近の私、近過去記憶が全く定着しなくなっていて、スポーツは1年間通して色々見てきたはずなのに、今、記憶にあるのはサッカーのワールドカップぐらい。北京オリンピックの事など、断片的にしか憶えていません。つらつらと書き始めれば何かしら思い出すかしら。

スポーツ系生観戦は、たぶん2回だけ。

それは2回とも野球

  1. 9月10日 2022 パ・リーグ公式戦 ライオンズ vs ファイターズ 西武ドーム
  2. 9月19日 2022 パ・リーグ公式戦 ライオンズ vs イーグルス 西武ドーム

2試合とも招待券で見る事が出来ました。ありがとうございます。


これを含めて今年は、野球をかなり真剣に観ました。NPBもメジャーリーグも。
日本シリーズは本当に疲れた、毎日疲れた、観ているだけなのに。というのを今思い出した。

サッカーは、生観戦ゼロ。TVでは、地上波の放送が少ないのでなかなか見る機会がないのだけど、放送がある時は、なるべく観るようにしています。海外のサッカーはすっかり観られなくなってしまって残念。その憂さを晴らすかのようにワールドカップは(見逃し配信も含めて)全試合観戦。

ついでに言っておくと、私は、日本代表の森保監督、初采配時から、今日に至るまで一貫して嫌い。
たぶん全試合観ているけど、本当に嫌い。なぜ急に語った。続投が決まってしまったからか。

格闘技系は、ボクシングの井上尚弥が本当に凄過ぎて、こんなに凄いボクサーは今まで見た事ありません。これまで私、一番好きなボクサーは具志堅用高だったのだけど、ちょっと「好き度」でも上回ってしまったかも。

バレーボールは、世界選手権の地上波放送は全部録画して見ました。全日本は、男子も女子も、誰もが知っているようなスター選手が出てきて欲しいと思った。全体的に印象が薄い。

卓球は、テレ玉でTリーグの放送をしてくれるし、テレ東で大きな大会は放送してくれるので、1年間通してけっこう見てきた印象。若い才能が次々出てくるので、とても面白い。

他にも色々見ているけど、こんなところで。


ライヴ、コンサートなど

自分の出演以外でライヴハウスなどに行ったのは、ゼロ。
特にライヴハウスは喫煙OKのところが多いので、そういう場所へは、今後も行く機会はないでしょう。

クラシックの音楽会なども一度も行けませんでした。

今年、音楽関係で会場へと出かけたのは、(たぶん)2度だけ。

  1. 5月22日 櫻坂46「渡邉理佐卒業コンサート」国立代々木競技場 第一体育館
  2. 8月30日 「Kyoko Koizumi 40th Anniversary 小泉今日子ツアー2022 KKPP」中野サンプラザ

どちらも特別な意味のあるコンサートなので、参加できて本当に良かった。
これは一生忘れない記憶(であってほしい)。
感謝。


読書

読書は色々ありすぎるのですが、今年は、3月に松村雄策さんが亡くなった事もあり、古い本を読み返したり、少し前に出た新刊「僕の樹には誰もいない」を読んだり、それが2022年の一番印象深い本との時間。

とりあえず、Inputまとめ第1弾はこんな感じで、第2弾があるかどうかは謎。(こういう事を書くと大体ない)
映画まとめは来年になってからやる予定。